377冊目『ナショナリズムは悪なのか』(萱野稔人 NHK出版新書) | 図書礼賛!

図書礼賛!

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。



 この本はこれまで二回読んだことがあったのだが、書評するためにもう一回読んだ。著者の萱野稔人は『国家とは何か』でデビューし、以降、多くの哲学書を刊行している、私は大学生のときに地元の図書館で『国家とは何か』を見つけて借りて読み、その明晰な論考に圧倒され、一気に萱野のファンになった。それからというもの、氏の新刊の本はたいてい購入している(未読なものもあるが)。さて、萱野は本書でタイトルにもある通り、「ナショナリズムとは悪なのか」と問題提起する。日本の人文思想界においてナショナリズムが好意的に捉えられることは皆無といってよいだろう。所詮、虚構なものでしかない国民意識は過激なナショナリズムにつながり社会に不穏をもたらすことはあっても、何のメリットもないというわけだ。しかし、ナショナリズムは本当に否定できるのだろうか。

 萱野は本書の冒頭で、ナショナリズムを否定する日本のリベラル左派がいかにナショナルな視点から社会を見ているかを述べている。リベラル左派は、90年代以降における日本型雇用システムの崩壊による非正規社員の急増、正社員であっても低賃金の長時間働による酷使等々、貧困化する社会に警鐘をならしてきた。もちろん、このような労働条件の劣化はグローバル資本主義にその根源がある。安い人件費を求めて生産拠点が続々と海外へ移転すると、国内の雇用は空洞化する。とくにブルーカラー労働者は、周辺国との底辺の競争に巻き込まれ、賃金の下方圧力を受ける。貧しいものはますます困窮し、富めるものはさらに富む、これが現代日本の格差社会の実態である。しかし、この格差が問題であるという認識はナショナルインタレストに拠らなければ成立しない。世界的な現象としてみれば、先進国と途上国の賃金格差が平準化していっているわけだから、平等の価値を信奉するリベラル左派なら、このことを歓迎しなくてはいけない。しかし、彼らは「格差は問題だ」という。この発言は国内問題というナショナルな関心がなければ成立しない。私たちはどうしてもナショナルな視点で語ってしまうのだ。

 このように萱野はいわば俗流の反国民国家言説を明晰な論理で否定していく。たとえば、国民国家論の古典として良く取り上げられるベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』という本がある。アンダーソンはこの本で、活版印刷による浸透が共通言語を生み、国民意識を醸成した、と説いた。アンダーソンのこの書はあまりに有名で、特に「国家は想像上のもので虚構」というフレーズは国民国家批判のための重要な理論的根拠となっている。しかし、萱野はここでも、日本の人文思想界のアンダーソンの表層的な受容を問題視する。萱野は、アンダーソンはネーション(国民)は想像上のものだと述べたが、国民国家が想像上の産物だとは言っていないと注意を喚起する。たしかに、その通りだ。縁もゆかりも人間を同胞と意識するためには想像の働きが必要だろうが、国家そのものは想像ではなく、紛れもなく実在である。税金を納めなけば強制徴収し、法を犯せば逮捕しにやってくる。そのような存在を想像上のただの虚構だというのはあまりにも実態が見えていない。

 萱野がこの本で、国家というのは想像上の産物ではなく、確固とした社会的基盤の上に成立すると強調している。国家と資本主義は親和性が強い。資本制は人・モノ・金の円滑な移動を行うためにテリトリー内の均質化を求める。それが教育による共通語政策であったり、市民平等だったりしたのである。「国民国家は、国家がみずからの内部を、労働力が自由に移動し、資本が自由に投下されるような社会空間につくりかえることで成立したのである」(168頁)。かつてのリベラル左派は、国民国家のこの現実的な基盤には目を向けず、国家は想像上の虚構だと言いたてた。時には、「韓国国民、中国国民の声を聞け」というふうに、あれ、国民は虚構ではないの?と思わず問いたくなるようなダブルスタンダードを見せることもあった。今や国内ではヘイトスピーチが跋扈したり、ポピュリズムが席巻したり、国家に過剰に囚われている人が多くなり、社会問題となっている。むろん、これらの問題がすべて左派のせいだというのは可哀そうだが、少なくともナショナリズムの根源を見誤った点についてはきちんと清算するべきだろう。