375冊目『敗戦と戦後のあいだで』(五十嵐惠邦 筑摩選書) | 図書礼賛!

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 忘れた頃に「戦時」がやってくる。日本は、戦後になっていくつかこのような経験をした。敗戦後、進駐してきたGHQによって占領され、民主主義国家として過去の帝国日本と決別をつけた。しかし、占領期間中、共産主義封じ込めに本格的にシフトした占領軍の逆コースによって、日本は反共の防波堤と位置付けられ、朝鮮戦争のときには事実上、兵站基地として機能した。朝鮮特需に沸く日本はその後、経済大国への道を歩むようになり、1979年にはエズラ・ヴォーゲル(ハーバード大学)が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』なる書物を著した。敗戦の痛手から立ち上がった日本国民はかつての敵国人のこと言葉に慰められ、誇りとした。高度成長を邁進することによって敗戦の記憶を忘れつつあった日本だったが、ことあるごとに「戦時」を突き付ける存在と直面することになる。それは帰還兵の存在である。

 敗戦時、中国大陸に進出していた日本兵・民間人のなかには本国に無事帰還できたものもいたが、ソ連による強制連行でシベリアに抑留されたものも多くいる。明確な数は諸説あるが、その数は60万を超えると言われている(なお、死者は6万を超えるとされる。これも諸説有)。ミズーリ号上で正式に敗戦を受け入れ戦争が終結した後でも、シベリアの地に多くの日本人が抑留されていることは当時の日本にとっては大きな関心であった。新聞では京都府舞鶴の地で夫を待ち続ける母子の写真が掲載されたりした。抑留者は1950年までにはほとんどがが帰還したが、抑留者自身の証言によって、重労働、飢餓、極寒というシベリアの地での過酷な生活が広く知られることになった。しかし、彼らの存在は敗戦の痛手の記憶を鮮明に残す当時の日本にあっては、決して他者ではなかった。

 1956年の『経済白書』に「もはや戦後ではない」という言葉が躍った頃、日本は文字通り過去の敗戦の記憶を忘れようとしていた。ちなみに、この「もはや戦後ではない」という言葉は、本当のところ、敗戦の回復期における経済復興はもう限界であり、ここからが正念場であるという切迫感を示す言葉であったが、いつの間にか、過去の痛手を克服した日本国民の気丈さというナショナルな表現に取って変わられてしまった。1964年に東京オリンピックが開催され、国際社会の一員としてプライドを開腹した日本だが、そんな中、日本を揺るがした二人の日本兵の存在がある。横井庄一と小野田寛郎である。横井と小野田はそれぞれグアム島、ルバング島で敗戦を知らず、「戦時」を生き抜いていた。横井は敗戦から28年、小野田は30年も彼の地のジャングルで戦時サバイバル生活を続けていたのである。

 過去を忘れ、経済成長に邁進することで自らを鼓舞していた日本にとって彼らはどのように包摂されたのか。五十嵐は戦後を語るメディア表象について興味深い指摘をしている。それは、50年代半ばでは、戦地からの帰還者は共同体に復帰するストーリーが主だったが、60年後半には、特攻隊員のような決して帰ることのない男たちを涙で見送る女たちのストーリーに変奏されてしまっているというのだ。これは最後のシベリア抑留者が1956年に帰還することと符合する極めて重要な指摘である。したがって、戦後日本はシベリアの帰還者の存在をもって一切の帰還者の問題を片づけたことにしてしまったのである。だから、戦時そのものである横井や小野田の存在をどう扱ってよいか分からず、ワイドショー的に消費するしかなかったのだ。五十嵐は書いている。「日本社会が経済的復興そして高度成長を成し遂げ敗戦の痛手から回復した自身を取り戻すと、そのように過去を再演し、戦争による傷が癒されたことを確認する必要もなかったからである」(266頁)。戦後という言葉はあまりにも一般化しているが、はたして戦争は本当に終わったと言えるのだろうか。少し周りを見渡せば、戦後においても戦時はいたるところにあると気づく。沖縄には依然として米軍基地があり、シベリア抑留たちが国家に対して求めた補償が実現したのもつい最近のことだ(2010年、戦時強制抑留者特別措置法)。戦時を見る視点を忘れてはならないと思う。