252冊目『言語的思考へ 脱構築と現象学』(竹田青嗣 径書房) | 図書礼賛!

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言語的思考へ- 脱構築と現象学/径書房

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竹田青嗣とは?

私には、お気に入りの日本の哲学者が三人いる。國分功一朗と萱野稔人、そして竹田青嗣だ(奇しくも、三人とも早稲田大卒)。この三人の哲学者の著作に共通するものは、「たいへん分かりやすい」ということである。たしかにこの三人の著作のどれを読んでも、非常に分かりやすい。もちろん、それは説明を簡略したり、難解な箇所は省いているといったことではない。哲学上の難解なテーマでも、きちんと噛み砕いて説明してくれるのだ。やはり、哲学者だけはあって、物事を徹底的に根本的に考える姿勢、つまり言葉の定義や問題設定の明確さを追求することによって、主張にすっきりと筋があるのである。だから、大変分かりやすい。その中で、竹田青嗣の本は、大学生時代によく読んだ。氏の『現象学入門』(NHKブックス)という本に感銘を受けたことがきっかけで、竹田青嗣の本を貪るように読んだのだ。それにしても竹田青嗣の文章力は天性のものがある。竹田の本で引用されるデリダなどのようなポストモダン系の哲学者の難解な文章が、竹田青嗣の解説にかかれば、きわめて意味明瞭に理解できるのである。さて、竹田青嗣の哲学の専門分野は現象学である。現象学とは、ドイツの哲学者フッサール(1859~1938)が創始した哲学である。そして、竹田は、このフッサールの現象学を哲学思考の根本原理を示すものとして大変高く評価する。しかしながら、竹田が言うに巷間に流布しているフッサールの現象学の理解は、大きな誤解に基づいているという。たとえば、次のデリダの議論を通して、その誤解を見ていこう。

デリダのフッサール理解

哲学上の大きなトピックとして、認識問題がある。つまり、「正しい認識はいかにして可能か」という問題である。これは言い換えれば、対象そのものをあるがままに人間は認識できるのかということでもある。少し分かりやすくいうと、例えば、犬の視覚は白黒であると言われる。だから、犬は紫や青といった色を判別できない。それゆえに犬はあるがままの対象を認識できないということができる。あるいは、ある種の生物は、対象の輪郭をぼやけた状態のみでしか認識できないものもある。これもまた対象をあるがままに認識できないといえる。では、人間は、対象をあるがままに認識できると考えてよいものだろうか。「見る」という行為を可能にするためには、光が必要である。媒介した光を通して私は対象を見ることができるようになる。しかし、いくら一秒間に地球を7周半する光であっても、時間軸をもっている以上、常に対象を「過去の姿」として我々に示すにすぎない。そういう意味では、人間もまた対象をあるがままには見ていないということになるだろう。これを言語の問題にスライドさせれば、「正しい意味の受け取りはいかにして可能か」という問題設定を導くことができる。こうした認識問題の言語ヴァージョンについても、古来の哲学者はいくつかの回答を用意してきたが、ここではその詳細を端折って、フッサールだけを取り上げる。
フッサールによれば、意味を生み出すものは、発話主体の心内におこる直観である。この「ありありと」とした生の感覚が言表を支えている。フッサールの言う「純粋直観」とはこのような意味である。しかし、デリダはこのフッサールの認識に異を唱える。たとえば、私たちは、手紙や本といった活字のみからなる情報からだけでも、その意味理解が可能である。こう状況を説明するためには、意味とは発話主体の内的直観とは違った説明が必要になる。「この花はきれだ」という言葉の意味が、発話者の内的直観に触れることができなければ理解できないというのは、言語の本質をとらえ損ねている。むしろ、言葉というのは、それが表現された瞬間、発話者の内的直観から切り取られ、むしろ記号として作用するからこそ言葉の意味が他者に開かれるのである。(この記号のことは、デリダは「痕跡」という。

〈私〉の記号的価値は話し手の生に依存しない。知覚陳述に知覚作用が随伴しようとしまいと、〈私〉の陳述に〈自己への現前〉としての生が随伴しようとしまいと、それは意義作用の機能遂行には全くどうでもいいことである。『声と現象』182p

つまり、言表の意は、発話が根源なのではなく、生き生きとした賦活を失った痕跡の記号によって可能となるということである(差延なき声、書字なき声は、絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる、前掲書195p)。

したがって、ここでデリダはパロール(発話)よりもエクリチュール(書き言葉)の優位を説く。しかし、デリダの結論はひとまず置くとして、デリダのフッサール理解は適切なものではない。なぜなら、そもそもフッサール現象学においては、言葉の意味を話者の内的直観に還元していないからである。そのことを詳しくみていこう。

現象学とは?

さきほど、哲学上の重大なテーマとして「認識論」に触れておいた。つまり、対象をあるがままに捉えることは可能か、という哲学上のアポリアである。一般的に、目の前に光沢な輝きを放つ赤いリンゴがあるとして、そのリンゴが我々の視界に入ることで、我々はリンゴを「見る」ができると考える。たしかに、その通りである。そもそも目の前のリンゴ実在しないならば、我々の目にリンゴを捉えることは不可能である。しかしながら、現象学というのは、「世界についての『確信成立の条件と構造』を解明すること」(本書)である。分かりやすく言うと、リンゴが目の前にあるから私の目にリンゴが見えるという常識的な認識の枠組みをひっくり返し、我々の目にリンゴが映っているので、目の前にリンゴが存在することは疑いえないという思考法をとる。これを「現象学還元」という。別に大した違いはないのではないかと思われるかもしれないが、この違いは大きなものだ。常識的な認識論では、リンゴの存在が「原因」として、それが我々の目の見えることが「結果」だが、現象学では、我々の目にリンゴが映ることが「原因」で、リンゴの存在が「結果」となる。前者の認識論のアプローチは対象を客観性を前提にしているので、真なる対象の存在を模索する、解決し難いアポリアに直面することになるが、後者のアプローチでは、あくまでも「見える」という体験の確信成立の条件を問題視しているのであり、ここでは「あるがままの対象」を捉えるという哲学上のアポリアは出来しない。そして、この現象学思考は、言葉の多義性という言語哲学の問題の解明にとって大きな示唆を与えてくれるのだ。

言葉の多義性

著者の竹田は、現象学的なアプローチを使うことによって言語の多義性の謎を解き明かしている。わざわざ辞書を確認するまでもなく言葉は多くの意味をもっている。たとえば、「首」という言葉は、身体上の部位として意味もあるし、解雇という意味もある。大概は、2つ、3つの意味を持つ語が多いが、10個以上の意味をもつ語もある。しかし、言葉は多義性のもっとも大きな特徴は、「辞書に明記されていない意味」を常に持ち、なおかつ我々はそれを了解できるということだ。たとえば、学校のテストを受けている際に、設問の箇所で「空欄に入る語を苺選べ」という文章があったとする(これは私の体験談)。は? 苺? と思うのだが、すぐに「一語」のことだと気づく。当たり前といえば当たり前だが、このことについて哲学的にはもっと深く考える必要がある。当然、辞書で「苺」の箇所を調べても、「語としてのひとつの単語のこと」という説明は一切ない。それでも、我々は「苺」から「一語」を導出できるのはなぜだろうか。ここらへんの竹田の解説は論理明晰で鮮やかであり、ウィトゲンシュタインとかハイデガーを援用して勉強になるのだが、ここでは端折って私なりに簡単に結論をいってしまうと、つまり、語の意味というのは、発話者の意図を目掛けて、受信者が意味を確定しようとすることで決まるからである。したがって、語の意味を確定する場合、状況コンテクストが大事になってくる。この状況コンテクストのおかげで、多義語でも意味が確定するのである。具体例を付け足すと、「お金がない」と友人がいったとき、それは「恵んでくれ」、あるいは「遊びに行けない」、もしかしたら「バイトしよう」という意味かもしれない。だからといって、我々がどの意味だろうと思い悩むことはない。状況コンテクストが意味を一義的に確定するからである。むしろ、言葉の多義性とはこう言うべきであろう。

現象学的な観点からは、「語」は多様な「意味」を〝持つ”のではない。そうではなく、われわれはある「語」から、いつでもこの語に結びつく概念的連関を〝展開”することができる(212-3頁)

かつて、当ブログでも「言葉の意味はどこから派生するのか」についてはいろいろ書いた。その差異、構造主義の親玉のソシュールを持ち上げ、記号システムとしての言語の性格が言葉の意味を生むものだと解説した。しかし、ソシュール論では、なぜ「苺」から「一語」の意味が取り出せるのかは全く説明がつかない。そういう意味では、竹田の現象学的言語論は、ソシュール言語学の理論的瑕疵を大きく修正する画期的な論だと言える。

どのように言葉と向き合うのか

最後に、竹田の論考を踏まえた上で、我々はどのように言葉を向き合うべきかを考えたい。言葉を向き合うプロといえば、国語の先生がいる。特に現代文講師は、客観的な文章を読む技術なるものを学生に教える。もちろん、文章を読む際に一定の作法があるのは当然だし、理解できる。しかし、本書で明らかにしたのは、認識論上、対象の存在は原理的に確定できないのと同様に、発話者の言葉の意味(意図)を原理的には確定できない(だって発話者の頭の中を覗くことはできないからだ)。だからといって、このことは文章読解に無限の解釈の可能性があることを意味しない。常に発話者の意図を了解しようと努め、言っている(書いてある)ことが「分かった」と思ったときに生じる、自分の中の確信成立の条件を吟味してみることが大事だ。なぜ自分が「分かった」と思ったのかを絶えず言葉で検証してみることが、論理的に考えるということだろう。どれだけの講師が言っているのかはわからないが、文章を読むときに「主観を捨てて読め」と言われることがあるそうだ。しかし、それは正確ではない。むしろ、「絶えず生じてくる自分の主観を言葉で吟味し篩にかけること」、文章読解というのは、こういうことに他ならないのではないか。