253冊目『基礎から学べる入試現代文』(青木邦容 代々木ライブラリー) | 図書礼賛!

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青木邦容とは?

青木邦容は、代々木ゼミナールの現代文および小論文講師である。出身大学は関西学院大学で、この時から名門の浜学園で教鞭をとっており、大学卒業時に現代文の問題集を上梓するという異例の経歴の持ち主である(本書、まえがき)。激烈な講師間競争が激しい予備校業界で常に最前線で活躍し続けている実力派講師である。私は、受験生時代、青木先生の授業をサテラインで受講していないが、青木先生の講義を受講している友人は、「青木は、めちゃ面白い。分かりやすいし」と言っていた。社会人となった今でも、機会さえあれば青木先生の授業を受けてみたいものだと思う。代ゼミのホームページやyou tubeなどであがっている動画から拝見するに、青木先生は実に話が上手い方である。なおかつ、ユーモアがある。話を聞いている生徒がどんどん惹き込まれているのがわかる。どんどん話を聞きたいという気にさせてくれる先生なのだ。それでいて、解説も分かりやすいとなれば、人気講師として君臨しているのも頷けるというものだ。

現代文を読む前に

ところで、私は、青木先生の講義自体はとったことはないが、受験生時代に青木先生のお世話になった学生である。青木先生の参考書を使っていたからだ。今回、紹介する参考書とは違うが、『青木の現代文「単語の王様」』(代々木ライブラリー)という、なかなか面白い参考書がある。これは現代文の問題演習用参考書ではなく、入試現代文で頻出する「評論ワード」の解説を懇切丁寧にほどこした力作である。私は、この本を通して、問題演習とは別に評論用語を体得せねばならないということを知った。私は、高校時代、それほど現代文が得意でなかった。平易な文章はまあまあ読めるし、点数もそれなりに取れるが、抽象度がぐっと上がり、難解な文になるとまったく歯が立たなかった。どれほど問題をこなしてもあまり成果がでなかったため、「現代文はセンスだな」と決めつけていたが、そもそも硬い評論文に対峙する素地が出来上がっていなかったのである。たとえば、「概念」、「観念」、「記号」、「アプリオリ」、「アポステリオリ」などといった頻出ワードがある。これらの理解が曖昧であったり、無知のままであったりすると、評論文は読めない。まず、入試現代文に対峙する前に言葉の勉強の重要性を指摘してくれたのが、この参考書であった。

青木メソッドを考える

さて、今回は、全十二題もの問題を収録した現代文問題演習用の参考書である。タイトルに「基礎から」とあるように、初学者向けに書かれた参考書である。そのため、問題自体はたいへん易しいものが多い。初学者にはうってつけの参考書だが、それなりの実力者でも復習用に使用してみるのもいいかもしれない。講義をそのまま文字におこしたような解説なので極めて丁寧であることはさることながら、随所に「青木メソッド」なるものが登場する。これは、問題を解くためにヒントになる考え方だ。本書222~223頁には、青木メソッドを一覧にしているので索引としても使える。私も国語講師だから、これらの方法は多いに参考になった。私も同じように教えてるなあというものだったり、これはいい方法だから使ってみようというものだったり、あと、あまり腑に落ちないなと感じるものだったり、いろいろだ。
さて、この参考書では、どちらかというと「教えすぎる」参考書だと言えそうだ。当然、教えるのが仕事なのだから「教えすぎる」という言葉がそもそもおかしいともいえるが、かなり「このようにするのだ」という指示が細かくなされている。ちなみ、本書に随所登場する青木メソッドは実に38個も用意されている。このように「教えすぎる」教授法に対して、「教えすぎない」教授法で指導する立場の先生もいる。つまり、あまりにも全て教えてしまうと、学習者の学ぶ意欲が減退し、好奇心を刺激しなくなるというわけだ。たしかに一理ありそうな意見である。私は、どちらかというと「教えすぎる」タイプの講師かもしれない。毎回の授業では、該当の文章に関して自分が知っている知識を全て出すということを結構、意識している。だから、知識の出し惜しみはしていない。そういう感じで授業をしているので、もしかすると「教えすぎない」先生方からは、不評を買うかもしれない。しかし、私はそもそも知識をたくさん教えることが好奇心を減退させてしまうとは全く思っていない。むしろ、逆に知識を教えれば教えるほど、未知の領域も知ることができ、好奇心が刺激されるのだと思う。とくに現代文だと扱うテーマが社会評論になるので、豊富な知識を生徒に与えることであれこれ考えてもらうことが大事だと思っている。その中で体得した知識を論理的に組み立てる訓練をして、初めて思考力が磨かれる。その指導のあり方に国語講師としての力量が問われるのであろう。