250冊目『ネイティブが使う英語・避ける英語』(佐久間治 研究者) | 図書礼賛!

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ネイティブが使う英語・避ける英語/研究社

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ほとんど大学入試の英語の科目で、文法問題というのがある。単純な四択式問題だったり、誤文訂正問題だったり、または並び替え問題だったり、様々なバリエーションがあるが、いずれにせよ、文法的に正しいとされるものを選んだり、直したりする問題である。しかし、文法的に「正しい」とはどのようなことを意味するのだろうか。

当然だが、言語は時代とともに変わっていく。現代人の多くにひとにとって、千年前の平安時代の和文を読むのは難しいことである。使われなくなった語彙もあれば、まったく意味内容が違っている語彙もある。さらには文法だって古典文特有の構文がある。このように言語というのは、時代とともに変わっていく以上、常に可変的存在である。千年前はおろか、祖父母、親、子という三世代が同時代的に共存する現代においてさえ、それぞれが「正しい」と考える表現は違う。

本書は、主に学校英語では「正しい」とされてきた英語表現(文法)に焦点をあて、それが必ずしもそうとは言えないこと、あるいは「間違い」とされてきた表現が、今では正当として認められていることなどを多くのデータを用いてしめしたものである。私はこれを図書館で借りたのだが、英語講師として必携しておきたいと思ったので、近々購入せねばと思った。

よく学校文法を槍玉にあげて、「ネイティブはそんな表現しない」などと言われる。この「ネイティブはそんな表現をしない」という言葉は、どこか水戸黄門の印籠めいた効果があり、「それを言われたらもう返す言葉がない」状態になる。しかし、少し考えてみればわかるように、ネイティブスピーカーなどといっても、世代、階級、高等教育の有無などによってさまざまな言語観をもっているはずだ。たかだが数人のネイティヴに聞いた程度で、語法的な正誤は判断できないと言うべきだろう。ネイティヴなどという抽象的な主体はいないのだ。

そういう意味では、本書は、ネイティブが日ごろ、扱っている英語表現の揺れを的確に解説した本といえる。いわゆる日本の学校英語は、英米圏の年配層の人たちが正法と認めている文法的な在り方と一致するが、若年層の台頭とともに従来の正しいとされる表現法からやや逸脱しつつある。place to live in よりもplace to live の言い方の方が好ましいとか、as if 過去完了形ではなく、as if 完了形が普通とか、間接話法の語順は実際は適当とか、極めつけは、yes, I don’tなどという言い方もあるなどといった、驚きの連続である。こうなってくると、今まで教えてきたことは何だったのかという感じになってしまう。

とはいえ、文法など無意味だなどと結論を出してしまうのは、違うだろう。実際に世間で使われている表現と、「正しい」とされる言葉使いは厳密にいえば違う。たとえば、日本語の「ら抜き言葉」にしても「投げれる」「食べれる」は誤用で、「投げられる」「食べられる」が正当とされるが、実際には、「ら抜き言葉」は多用される。そのことをもって、「ら抜き言葉」は正法と認めるかどうかは別次元の問題である。現在、ネイティブ間での英語の揺れもこれと同じような事象かもしれない。

ところで、私はあまり「正しい日本語の使い方」とか、「その表現、間違っています」のような類の本は読まない(まあ、英語関連本は仕事上、読むが)。こういう本はだいたい言語というものは客観的な対象として扱いがちで、それが私には違和感があるのだ。言葉はどこまでいってもコミュニケーションの道具であるはずなのに、こういう類の本には、その言葉を投げかける他者がいない。もしくは、その他者がきわめて抽象化されている。そして、私は言葉の「正しさ」というのは、決して言語それ自体の分析からは取り出せず、他者との文脈において決まると信じているのだ。このことを私に教えてくれたのは、元代々木ゼミナールの現代文講師田村秀行先生である。たとえば、先生は、語の「正しさ」を考えるにあたって、「語性」というものを考える必要があると言っている。たとえば、先ほどの「ら抜き言葉」の語性は、「だらしがない・知的レベルが低い・フォーマルでない」といった要素が不随している(『だから、その日本語では通じない』青春出版社、51頁)。つまり、敬語と逆の性質を持つのが「ら抜き」言葉だる。したがって、「ら抜き言葉」をコミュニケーションにおいて使用する際に肝心となってくるのは、「ら抜き言葉」は、友人同士であれば使っても問題ないが、目上の人に使うのは好ましくないという現場判断である。コミュニケーションとしての言葉の「正しい」使用は、語の分析だけからは限界があり、この現場判断が大事になる。もちろん、そこには画一的な規則はないし、他者との距離を考えて言葉を選んでいくというのは、面倒くさい。しかし、「その面倒さこそが、『社会に生きている』ということ」(54頁、前掲書)なのだ。こうしたことを踏まえると、「ら抜き」言葉を考える際に、「文法的には「られる」が正しい」としか説明を加えていない本がいかに無味乾燥かが分かるだろう。私はこうした目の前の他者を抹消した言語に関する本には抵抗感があるのだ。