248冊目 Ferdinand de Saussure, Jonathan Culler | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

Ferdinand De Saussure/Cornell Univ Pr

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ジョナサン・カラーの『フェルディナンド・ソシュール』を読了した。しかも原著で、である。これは大学生のときに英語の勉強のつもりで、購入した。当時、構造主義の親玉フェルディナンド・ソシュールに関心があったため、わざわざ外国から取り寄せて買ったのだ。これは未邦訳だとてっきり思っていたのだが、ちゃんと邦訳があった(岩波現代選書、川本茂雄訳で出ている)。

いったい、ソシュールの何がすごいのか。ソシュールの言語へアプローチは、言語学のパラダイム転換だとされる。まったく言語に対する研究のあり方を根底から変えてしまったのだ。それまでの言語学は、ものすごく大雑把にいうと、語の変遷や系統という歴史的なアプローチが主流であった。これを言語の通時的研究という。しかし、ソシュールは、言葉とは記号だと定義した。言葉の意味とは、その語自体を取り出して、いくら丁寧に観察しても分からないものであり、記号システムの中における言葉の機能を観察しなければならないと喝破したのだ。これを言語の共時的研究という。

本書の具体例を使って、もう少し分かりやすく説明しよう。
色の名称、およびその概念について全く分からない一人の人間がいたと仮定しよう。しかも特別、飲み込みの遅い人間である。そんな彼にブラウン色とは何かを効率的に教えるためには、ブラウン色の100個ものデザインを彼に見せることだと考えたとしよう。つまり、「これもブラウン」、「これもブラウンだ」、「これもブラウンなんだぞ」と何時間も彼にブラウン色を示し続けるのだ。しかし、うんざりするほど退屈なこのレクチャーが終わったあとで、別室にあるたくさんの色紙のなかから、彼にブラウン色だけを取ってくるように言っても、なんと彼はブラウン色を選ぶことができない。そこで私たちは、再びうんざりしながら、今度は500個のブラウン色のデザインを準備し、彼にまたレクチャーしなければならなくなる。しかし、どれだけブラウン色のデザインを彼に見せ続けても、彼がブラウン色を理解することは決してないだろう。彼がブラウン色を理解するためには、ブラウンが黄色ではなく、赤色でもなく、橙色でも、灰色でもないことを理解しなければならないからだ。そう、ブラウンは、他の色との差異においてはじめて、その輪郭を与えられるのである。

It is only when he has grasped the relation between brown and other colors that he will begin to understand what brown is. And the reason for this is that brown is not an independent concept defined by some essential properties but one term in a system of color terms, defined by its relations with the other terms which delimit it.35p

(ブラウンとその他の色との関係を理解して初めて、ブラウンが何なのかが分かるようになる。その理由は、ブラウンが、なんらかの本質的な特性によって定義される独立の概念ではなく、他の語との関係によって定義を受ける色用語の体系におけるひとつの語だからである。 訳:與那覇)

この例からは、「言語は記号システムである」(Language is a system of signs. 28p)という定義を導くことができる。差異こそが、言葉の意味を生み出す起源なのである。親族呼称いえば、弟というのは、兄(もしくは姉)の存在が前提となって、その差異でのみ意味をもつし、左という概念も右という概念との差異によって理解される。もう少し意味に本質はないという例をあげるために将棋の駒を持ち出してみよう。相手と将棋をするときに、飛車の駒がどかに消えてしまってなくなってしまった。仕方がないから、紙をひきちぎって「飛車」とペンで書き、それを飛車代わりに利用した。紙に書いた代用の「飛車」でも充分に機能するのは当然だろう。なぜなら飛車自体に本質的な意味はなく、金、銀、角、桂馬といった他の駒と識別できさえすれば、「飛車」はそのまま盤上で活用できるからだ。このことが、意味は本質ではなく、記号体系の網の目から生まれてくるということの証拠だ(なお、将棋の駒の例は、筒井康隆『文学部唯野教授』岩波書店、参照)。

そして、この記号システムの説明の際に、ソシュールはシニフィアンとシニフィエという二つの概念を導入する。簡単に言ってしまえば、シニフィアンは「意味するもの」であり、文字や音声を指す。そしてシニフィアンは「意味されるもの」をさし、指示対象物をさす。一応、このように説明するが、急いで修正を施さなねばならないのは、シニフィエの説明の方だ。シニフィエは必ずしも指示対象物とは限らない。接続詞「しかし」、「だから」は指示できる対象をもたないが、明確な意味をもっている。それに我々は、「塩」とか「柿」とか「教科書」という対象を指摘できるような言葉を聞いても、わざわざその対象物を脳内にイメージすることはしない。このシニフィエの理解をめぐっては、ソシュールの弟子たちですら、いくぶん混乱がある。ソシュールは生前、自ら書物を著したことはなかったが、ソシュールの没後、彼の授業を聞いていた弟子たちが、講義録という形で世に残そうとして完成したのが『一般言語学講義』である。その『一般言語学講義』のシニフィエの説明として、「樹」のシニフィエの箇所に樹の絵を描いており、シニフィエを指示対象物だと思っている節がある。これについては、丸山圭三郎が、「言語道断」と批判している(丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、71頁)。ひとまず、シニフィエについては、「意味として理解されたもの」というぐらいにしか定義ができなさそうだ。そして、シニフィアンというのは、必ずこのシニフィエと結びつき、言語記号の差異の体系の中で意味を担うのである。

ところで、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは、恣意的(勝手気まま)とされる。例えば、毛むくじゃらで四本足で「ワン」と鳴く動物(シニフィエ)を「イヌ」(シニフィアン)と呼ぶ必然的はない。もし、必然性があるのなら、どの言語でも必ず同じ呼び名を使っているはずだからだ。もっと言えば、日本語では、「蝶」と「蛾」というふうに分ける生き物でも、フランス語では区別せずにどちらもパピヨンで済ませる。明らかにシニフィアンとシニフィエの関係は恣意的である。

There is no natural or inevitable link between the signifier and the signified.29p

(シニフィアンとシニフィエの間に本来的で必然的な結びつきはない。訳與那覇)

このような、対象を研究する際にその物自体ではなく、背後にある記号システムに注目するというソシュールの言語研究のあり方は、この後、構造主義という形でさまざまなアカデミックな分野に影響を与えていった。文化人類学のフィールドでは、レヴィ・ストロースが、「未開」社会における親族のあり方を構造として抽出したし、文学の面でも構造主義批評というのが誕生した。ちなみ、柄谷行人による夏目漱石の『こころ』論は、ソシュールの影響が見て取れる(『漱石論修正』平凡社ライブラリー)。

さて、ここでソシュールの考えについて、素朴な疑問をぶつけてみたい。まずは、シニフィエなきシニフィアンというのはあるのだろうか、ということである。たとえば、驚いたときの「あ!」や、気持ち悪いものをみたときの「げ!」という語にシニフィエはあるのだろうか。「あ!」や「げ」もそれなりに意味をもつ音声だとすれば、そのシニフィエとは何なのだろう。しかし、まあこれは単なる思い付きの疑問でたいした話ではない。それ以上に、一番疑問に思ったのは、シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的な結びつきだとされるが、はたして、本当にそうなのだろうか。このことを考えてみたい。

たしかに、さきほどの「イヌ」の例でいうと、毛むくじゃらの四本足の動物を「イヌ」ということに何の必然性もない。したがって、名称と対象は恣意的だといえるというわけだが、しかし、これをニックネーム(比喩)に敷衍してみたらどうなるだろう。私の中学時代の野球部の友人に「ピノキオ」というニックネームをもつ男がいた。鼻が異様に高く、たしかにピノキオっぽい。あと、「カバ」というニックネームをもつ男もいた。たしかにカバっぽかったのだ。これら二つ例から言えることは、「ピノキオ」や「カバ」は決して恣意的ではなく、むしろ、その語でなければならない必然的がある(佐藤信夫によれば、これを「有縁性」というらしい)。「太くん」が肥満である必要はないし、「静香ちゃん」がうるさい女性であってもかまわないが、しかし、「ピノキオ」はピノキオっぽくなくてはならないし、「カバ」はカバっぽくなくてはならないのだ。むしろ、比喩表現の場合においては、言葉は恣意的ではなく、必然性である必要がある。レトリック研究の泰斗佐藤信夫が言うには、「ピノキオ」や「カバ」は述語として機能しているらしい。つまり、「彼はピノキオ(のような男)である」という文の述語の部分が、ニックネームになっているというわけだ。なるほど、実に明快な説明だ。うーむ。そうなると、これは有意味性をもたせる文として考えるわけだから、記号システムとしての言葉の意味とは分けなければならないということになるのか。いまいち腑に落ちないが、ひとまず今の段階でこれで分かったことにしておこう。