247冊目『アメリカ政治の壁』(渡辺将人 岩波新書) | 図書礼賛!

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アメリカ政治の壁――利益と理念の狭間で (岩波新書)/岩波書店

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本書では、「利益の民主制」、「理念の民主制」という図式で現代のアメリカを描写する。これらの用語は、もともとは政治学者の砂田一郎が使用した図式らしいが、今日のアメリカ政治を知る上でも有効である。「理念の民主制」とは、価値への奉仕を反映した政治のことであり、一方で、「利益の民主制」は、経済的な利益を反映した政治のことである。アメリカ政治では、この二つの民主制が複雑に絡まり合っている。たとえば、経済的な利益を無視して医療保険改革に反対する中間層以下の保守派がいたり、あるいは、中絶の権利、同棲婚の権利を支持する中間層以上が、「利益の民主制」に反して格差是正に賛成だったりする。

政治を考えるとき、「価値」と「利益」、どちらに重きを置くのかは非常に悩ませる問題である。オバマ政権のとき、「アメリカ・クリーン・エネルギー安全保障法法案」をつくり、排出権取引の法制化や、企業に温室効果ガスの排出削減義務づけを目論んだが、上院で廃案になった(2009、6)。廃案になった主な理由は、化石燃料や石炭産業が主要な雇用を占める州の議員の支持が得られなかったからだ。リベラルは資本制に敵対し、環境保護に熱心だと思いがちだが、米国では、気候変動の最大の抵抗勢力が労働組合だったりする。著者によれば、「彼らにとって明日の「パン」に関係ない遠い未来の気候変動など二の次だ」(72頁)。

目先の利益にしかこだわらない集団を視野狭窄だとして指弾することは容易いが、私はそう簡単に非難できない。やはり、大多数の庶民は、明日食うパンのことを考える。日本の文脈でいえば、憲法九条とか在日米軍基地とか原子力発電所とか、そんな「理念の政治」より、給料は上がるのか、年金はちゃんともらえるのかという「利益の政治」を考える。毎日の生活に必死の庶民からすると、「憲法九条」とか「安保法制反対」などの政治的スローガンを叫んでいる人たちがどこか高等遊民に見えなくもない。実際に、本書でも紹介されているようにアメリカでは、ハードハット暴動と呼ばれる、ブルーカラーの白人労働者が、ヴェトナム戦争に反対する学生(ホワイトカラー予備軍)を鉄パイプで襲撃する事件が起きている。「食べていくことに必死な愛国的労働者にとって、…戦争はむしろ雇用を与えてくれるものであり、衣食に足りている学生が星条旗を燃やすことは許しがたいこと」であったのだ(74頁)。

民主的な価値の下に「利益」と「価値」をある種、対比的なものとしてアメリカ政治を論じる本書のスタンスを私自身に応用したときに、私は自分のことを「利益左派」だな、と感じるようになった。もちろん、私は「自由」「平等」をあらゆる価値よりも上位に置くリベラル的な価値を信奉もしている。正直、日本の伝統なんて興味ないし、そうした保守的な価値観よりも近代的な価値観の方を大事にしたい。しかし、今の私にとって、大事なのは紛れもなく金なのであり、「利益の民主制」なのである。少し話が変わるが、沖縄県の翁長知事は、2015年の東京都内の日本外国特派員協会での講演で、基地の過重負担を強いられる沖縄の現状について、「私たちも生きる権利がありますし、尊厳も持ってますし、」と発言した(1)。基地負担についてこのように憤りを見せる姿勢は支持するし、私も同じ思いなのだが、一方で、私は、「沖縄の民間の労働者はとっくに尊厳なんて踏みにじられている」と感じていた。翁長知事が、基地問題と同じくらい語気を強めて、「ブラック企業は絶対に許さない。必ずぶっ潰す」と発言したことは、私の記憶の限りない。別に基地問題と労働問題は別々だからと言われればそれまでだが、当時の私からすると、本書の言葉に即していえば、「価値の民主制」があまりにも前景化しすぎて、「利益の民主制」がないがしろにされていると思ったのだ。公務員天国とされる沖縄では、民間に勤める者はほとんど夢も希望もない生活である。私の友人は、週末に賃金の出ない労働を強制されていたし、別の女性の友人は正社員だったが、低賃金でこき使われ、適応障害で休職した。民間の労働者は尊厳なんてとっくに蹂躙されているのに、どうして翁長知事はそれの代弁をしないのか。まあ、そんなことを考えていたのである。

テレビニュースも新聞の社説も大きく扱われるのは、「価値の民主制」の方である。沖縄では、特に政治的価値が多く孕まれる「米軍基地問題」が大きくクローズアップされる。念のため、言っとくが、私も多くの沖縄の人と同じく米軍基地負担は過重になっており、普天間基地ぐらい無条件に引き取れと思っている人間である。しかし、私にとっては、そうした政治的なトピックよりも金と労働の問題の方が深刻だった。それなのに、新聞やテレビを見ても、自分を救ってくれる言説がない。そんなことを思っていたときに、赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国』(本ブログ、110冊目)を読んだら、赤木さんも同じようなことを感じていたことが吐露されていた。赤木さんは無名のブロガー時代に男女平等や憲法九条護持という左派的価値観を軸に言論活動を行っていた。しかし、ある時自らの社会評論を振り返り、「いままで自分が書いてきた言説のなかに、自分そのものを救済する言説が、ほとんど存在しないことに気づいた」という(146‐147頁)。自分の主張した通りの世の中になっても、相変わらず、低賃金で働き続ける自分の境遇はまったく変わらないことに気づいたのだ。そういう意味では、私も同じような問題を抱えていた。基地問題や教科書検定問題という「価値の民主制」で自分の思い通りになる沖縄になっても、金がない自分の境遇は何も変わらない。だから、私は、そうした価値的な政治問題はすべて棚上げにしてでも、「利益の民主制」の方を自分の思考の中心に据えようと思ったのだ。

また自分語りになってしまったが、アメリカ政治においても、「価値の民主制」を標榜するエリート富裕層と、「利益の民主制」をひたすら追求する中間層以下の人間がいる。両者が衝突し、政治がなかなか機能しない。著者は述べる。「経済格差という、アメリカを分断する階級的問題の縦軸の背後には、複数の横軸として価値的な分断が存在しており、これらの整合性が付かない限り、アメリカの経済的な格差問題も戦争や平和をめぐる問題も環境保護もなかなか前進しない」(224頁)。「価値」と「利益」が衝突し、政治が停滞する。こうした事態はどのように解決されるべきだろうか。「利益左派」として利益を追い求める一方で、こういうマクロな視点でも政治を考えていきたい。



(1)http://bunbuntokuhoh.hateblo.jp/entry/2015/09/28/152823