246冊目『言語学の教室』(西村義樹 野矢茂樹 中公新書) | 図書礼賛!

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言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)/中央公論新社

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最近、途端に言語哲学に興味が出てきた。特に解明したいと強く願う喫緊の問題意識に促されているわけでもないのに、言語哲学をやらねばと思ったのである。とはいえ、私はあまりにも次から次へと関心を移しすぎで、好奇心旺盛といえば聞こえはいいが、実際は飽きっぽいのだろう。現在、私が考えてみたい問題は、ハンナ・アレントの道徳哲学と近現代史(特にシベリア抑留)と貧困問題の三つである。そして、ここに言語哲学が入ってきたので、この四つの分野の本をひとまず読みこんでいかねばならないのだ。

それにしても、なぜ言語哲学なのか。その理由はありきたりだが、おもしろいからである。言語に関する本は、自分にはやはり特別なカテゴリーに入るらしく、全く読んでいて飽きないし、興味が一切減退しない。しかし、下手の横好きというか、言語哲学について体系的な知識を持ち合わせているわけではないし、まだまだ知らないこともたくさんある。ひとまず、今は初学者ということで基本を勉強する段階である。

さて、漠然と言語哲学についてやりたいなと思っているときに、知り合いから勧められたのが、この一冊である。どうやら認知言語学の入門書らしい。早速、読んでみたのだが、この本は対談形式である。哲学者の野矢茂樹(この人は、最近,『国語ゼミ』などという本を出して有名だ)と西村義樹の対談で、まるまる一冊の新書が完成している。西村義樹が認知言語学の専門家らしく、野矢茂樹はいわば、素人を演じながら、認知言語学とは何なのかを西村義樹から教えてもらうという、そういう構成だ。それにしても興味津々の素人というのは怖い。素朴に思ったことを何でも聞いてくるからだ。本書の対談でも、野矢さんの意想外の質問に対して、どうにか苦心しながらも説明をする西村さんという構図が何度もあった。まず、読了後の感想を一言でいうと、これは大変に興味深く、勉強になった対談であった。私は、あまり対談による本は読まないのだが、今回のこの本はすこぶる面白かった。

認知言語学というのは、これまで聞いたことはあったが、全くその中身をわかっていなかった。では、認知言語学とは何なのか。そのためにも、その対になる存在である、チョムスキーの生成文法について知っておく必要があるだろう。チョムスキーの生成文法では、「さまざまな心の仕組み・機能全体の中で、言語知識は自律したまとまりを成している」(21頁)と考えるのだそうだ。言語は自律したメカニズムをもっていて、普遍的な構造をもっている。たとえば、どの言語にも「主語+述語」というものがあり、そうした普遍的な文法規則は、文化的な影響を受けない自律した存在である、というわけだ。もちろん、日本語、英語、フランス語、スペイン語、その他の外国語はまったく語彙も文法も違うけれども、実はよく見てみると、お互いに共通している部分だったり、普遍的だと思えるようなところがある。世界にはさまざな言語があるが、それを「制約をもった多様性」として捉える、それがチョムスキーの生成文法の考えることなのだ。では、それと対比される認知言語学は、言語を一体、どのように扱っているのだろうか。西村さんによれば、認知言語学では、言語を自律したメカニズムとしては扱わないらしい。やはり、言語は人間の道具である以上、人間活動の営みの影響を受けるのは当然である、生活や文化のあり方が言語に浸透している事象をよく見なければならない、これが認知言語学の考え方である。大雑把にまとめると、生成文法は、言語を客観的に捉えようとするのに対し、認知言語学は、言語の主観性を考察するといったところだろう。

この認知言語学の考えがよく分かる具体例として、日本語の迷惑受身がある(本書、5‐8頁)。「雨に降られた」という文に出てくる受身の助動詞「る」のことだが、この場合は被害あるいは迷惑を示す用法として使われている。日本語なら全く違和感のない表現だが、これに対応する表現が英語にはない。当然、I was rained on などと言っても通じない。したがって、この迷惑受身の表現は、言語の自律した構造から要請されるものではなくて、日本人のメンタリティという文化的なものにかなり寄与しているのではないかと推測することが可能だ。したがって、「言葉の問題を言語だけに狭く閉じ込めないで、事柄に対するわれわれの見方や態度と結びつけ」るアプローチを認知言語学は取るのだ。なるほど、これだけを見ると、どちらが言葉の考察をより深く行っているかという点で考えれば、認知言語学の方に軍配を挙げたくなってくる。だが、これは対談の途中で野矢さんが言っているとおり、扱っているフィールドが違っているので、比較をしても意味をなさないだろう。

さて、本書の「第4回 使役構文の家族的類似性」の内容について一言述べたい。
まず驚いたことに、言語学では、「窓を開けた」という文も使役構文として扱うらしい。むしろ、こっちの方が典型的な使役構文なのだそうだ。我々のような一般人からすれば、「いやいや、使役というのは、誰かに何かをさせる、という時に使うのが使役なのであって…」となりそうだが、言語学ではそうは考えない。この疑問は、英語では「使役」のことを「causation」と呼ぶと知れば、少し納得いくかもしれない。つまり、使役とは「因果」なのである。つまり、誰かが窓に働きかけて、窓が開いた状態にすることは、文字通り、causation=使役なのだということだ。したがって、「開ける」という語は、「語彙的使役動詞」と呼び、先ほどの文は、「語彙的使役構文」と呼ばれる。ところで、「書かせる」はどうだろう。これは、動詞「書く」と助動詞「せる」が結合した形だから、「迂言的使役構文」と呼ぶらしい(「一つの語彙項目では表せなくて、複数の語彙項目を組み合わせないと言えないというところが、「迂言的」ということです」という西村さんの分かりやすい説明がある、本書、109頁)。さて、このことを踏まえた上で、次の引用箇所を頭の中に叩き込んでおこう。

迂言的な言い方をするときには、因果関係も間接的になっている。そして、端的に一つの語彙項目で言い表すときには、因果関係も直接的だと、…(本書、112頁)

ちょっと、おぞましい語のチョイスになってしまうが、「殺す」と「死なせる」で考えてみよう(本書でも、これらの語へ言及がある(110‐111頁))。さきほどの説明を踏まえると、「殺す」が語彙的使役動詞で因果関係を直接に示すもので、「死なせる」は迂言的使役構文だから因果関係も間接的である。なぜ、この箇所が気になったかというと、沖縄では、特に若者を中心に「死なす」という言い方をよくするからである(もちろん、冗談で)。「死なす」は、厳密には、語彙的使役動詞だろうが、実質は、迂言的だ。ヤンキーに限らず、清楚で可愛らしい女子高生でも、「やー、死なすよ」とよく言うのだ。この場合の「死なす」に、因果関係の間接性はないと思うのだ。たとえば、「母親は、赤ん坊を不注意を死なせてしまった」というような文脈とは全然違う。沖縄語の「死なす」には、因果を引き起こす動作主体が、眼前に存在しているのである。となると、これは、因果関係の間接を示す表現から、婉曲さを生み出したものと捉えるべきなのだろう。さすがに「殺すぞ」なら、直接的でおぞましく冗談にもならないが、「死なす」は、婉曲でむしろ愛着さえ醸し出している。そう、沖縄語の「死なすよ」には、愛情があるのだ。