霊力とは文にも乗る | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

まあ、私も気分屋なもんで、いつもいつも普通におるわけではないんだが



たまにまともな事も書こうとゆう時もある




まあ、そんな時には

文章に霊力がのっていると思いなさい。



真理とは内容が必要なのではない

経文とは読むだけでいいのだ

確かに内容を理解する事も必要ではあるだろう

しかしそんなもの、年をとって死ぬ間際に本当の理解ができればそれでいい



死後に迷わないように。



真理など知らずとも、頑張ってやりきった人生は最後に必ず真理になる。




まあ、なんだ



何が言いたいか



経文には霊力が乗っている



あの文字に。



御札もそうだ

御札は霊力の形を少し曲げて何への力を特化したかによる。



まあ、今時御札をまともに使える神社の神主なんてそうそうおらんと思うが。




こんな文章を書くのも霊力がのる




だからブログを読んでいれば意味はわからずとも霊力は受け取っている。




もしもわたしがいいね!を押せば、それは気を送った事にもなる



ささやかないい事があったり、気の減退を防ぐだろう。




信仰心が必要なのも、生きるとは気が減り疲れることなので、それを防ぐ為に高い真理、つまり意識へと繋いで気の減退を防ぐことにあった。



それが神への信仰心というやつだ。



何をしているかというと、気の減退を防いで体調不良やトラブルや事故を防いでいる。



それがたまたまこの世では、神を信仰するという形だっただけだ。



尊いものを信じ切る気は気高いのだ。



図太くなくていい

細くも気高い気が必要だったか、気高い為に自我がその上に来てしまう可能性が非常に高く、神を敬うという形に精神をとった。



もしも、神を自分の努力や敬いに変えれたなら、神など信仰する必要はなく

自分を信じていけばいい。



だから神を知らずとも、仏壇をまつらなくても普通に生きていける人間もおる。





わたしは知恵を教えている

その知恵は霊力がないと使えないのだ

だから知恵と霊力はセットである。