運という名の化け物 | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

どんな大国も、運気・幸運・不運・偶然には勝てないのです。
もっと天を畏れるべきなのです


という言葉をあるところで読んだ時に、自分が人間である意味が一時してピンときた。


自分はなんで神様とか精霊とか幽霊とか先祖とかいうことを、突然見え出して言い出したがやろうと思うたわ
なんでわざわざ意識せんでも普通にしておったら自分だけは普通に生きれるのに、そのなんでもない人生を無理矢理問いだだしてこんなにもジレンマというか、自分から電柱にぶつかりよるがやろうかと。
中二病も長くやりすぎて本気になって本当になったわと。


自分自身の目的はきちんとある。
でもそれがいったいなんなのかということはわからんかった
それでもその為だけに、やりきってきた。
そのやりきってきたのはなんながやろうと思うてきた
何をやりきり、何をして、どうなったがやろうかと。


 
うちは、人間が神様に頼んで奇跡の力で何でも解決される呪術みたいなやり方を学んできたがじゃない。


人が人としてどう生きれば神の方から助けが入るかという、人としての生き方をやってきたがじゃと


やっと気が付いた。



自分が神様ではいかんのよ
人間が人になり、人が神様に助けられる為の行動の持ち方ややり方を現実の世界で、奇妙な力を使うことなく実力そのものでやりたかった


やけん真理と道理・人と神というものを掲げてやってきたがや。


拝みかたとか、霊能力とか、奇跡とか、超能力とか、そんなものなしで神を動かそうと人としてを貫いてやった。


まあ、散々に人はそんなこと思わんとか、人はそうじゃないとか、それは人間になっちょるとか、人はこういうものやとか、指摘は入りまくって


人というものは難しかった。


それでも、やらんと
誰が神を動かせる生き方を述べれるがぞという話よ
魂も汚し、不幸も被り、糞も踏み、泥にも浸かる。


けどよ、人間ってそれからどうにかせんと神の方から助けてくれるってないがで。


どうにかしようと悩み苦しみ耐え、努力し、泣いても歩く人間に、神は納得して腰を上げる


そしたら勝手に問題は解決する。
嵐が去った空のように。


 
信じていたら救われる
感謝していたら救われる


そんなわけないろう。
 

 
やることやった後に、〆としてこんなもんはすることよ。
 

 
世界が不安定な時に、そんな時こそ明るく神様を信じていこうとか、できるわけないろう。


心配もして恐さも知ったらええ。
そしたら、知識も取り入れて危険なことは避けるし、そうならんようにするための対策も思いつきだすわえ。


苦しみ悩め、人間として。
 

 
神様はただでは動かん。


誰もが精一杯に立てた対策と勇気を、神は拾うだろう。


泣いても泣いただけで終わるな
悲しんだらそこでとまるな
次がくるぞ。


人生は容赦ないがやけん。


人には優しく、事実に冷酷になれ
人を助けて、憎しみを冷ませ


それが自分に厳しく人には優しくの本当の現実よ。

 
憎しみや怨みを持ちよる間に、次々に人が死んでいくぞ。


自分の憎しみや怨みに冷酷になり、人の命を生かす事だけを考えろ。
そこに、人としての感情や、自分の意志など必要ない。
それが、私が見え出す事の発端やった。

 

起こったことから人を責める時間はないぞ。
対策をとれ。


そうやって、泣く時間や恨む時間や憎しみの時間や怒る時間を自分に持たせる甘さを持つな。


けど、悲しむ時間は持ちなさい。


 
世界が現実的に今やらないかんのは、そういうことよ。