考えるのやめてみそ | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

思考の現実ってもんは、考えるのやめた時になんでも起こるわえ

考えるのやめた時に人は自我のない無になると思うちょるろうけど
自我と本心って別物でね
なくなるのは自我の欲求だけで
後に残るのは本心の希望だけなが。

多分この領域を、弾座の瞑想で行きよるがやと思うけど
瞑想せんと行けんようなもんじゃなくて、瞑想した意識で覚醒して生きる事が、可能よ
瞑想で自分というものはないという領域に行ってまさに在るけどKARAって感じを味わうけど、
このシーンとして自我がないまんまふっつーに生きれる

集中した時に自分を自分と考えてない時がまさに瞑想で行くKARAの所ながやけどね。
釈迦がいう空というやつよ。

やけどこうなったら自分を認識せんけん欲求が薄くなるけん人間染みたもんは取れるかもねえ

なんで感謝をしなさいありがとうと言いなさいと言うのかって、真心でやったときに自我ではできん事ながよ此れ
自我の機能ではできないのさ(゜▽゜*)

自我を退けたら空というものが現れるがやけど、簡単に行くには瞑想ではなく、感謝をした方が簡単っちゅう話しよにゃ。

瞑想は実は少し危なくてね
瞑想で行く空の次元に辿り着く前に、意識は低い霊界を通るがよ
やけん下手したら、瞑想しよる時に邪霊の声が聞こえる時があって、神様の御告げやと勘違いするヘンテコリンがたまに起こる
しかも慣れてきた頃にね。
やけん第六感を研ぎ澄ます時ってのは少し危なくて危ない道も見えてしまうのさ

何事も熱中すること大事でね。
集中した時ってのは人間精神の時を止めていてね、時間もあっという間やし、集中型の人間の細胞は老化が遅いらしいわ。
やけんこんな人間って若いわね。

少しうちは瞑想家や宗教家やスピリチュアル家とは意識の在りようが違うけん、似た事言いながら、この道に入ったけんこそ絶対的にこれらが言えんような事も言うけど
それもまた一つの色よ。