本心の使い方=天道 | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

何でもそうやけど



責任があるけんやる、じゃなくて


やりたいと思うけん責任を持つ、にして



生きんといかんわ。






自由性というのは必要でね




人間の心が安楽を感じるのは本心しかないがよ。





その本心で生きていくのを天道っていうが。




中山みきの天理教の天道は調べたこともまともに読んだ事もないけん、知らん。

ただ、どっちもが間違えてなかったら、この天理教の天道に行き着くろう




私は、宗教無所属っすよ。




ただ、仏教や神道は、好き






仏教はこうだから、ああだから、だから当たっているから

神道はこうだから、ああだから、だから当たっているから


だから正しいのだ!これじゃないといけないのだ!これは絶対だ!反したら神様にバチ当てられるなのだ!





っていう解釈は、苦しくなるし、人に勧めた時には重いし長続きせんで。





理屈がこうであるから、確信がありこれは本物だ!というより



まあ、こんな考えは素晴らしいね、凄いよ、感動した、凄い自分はこれが好きだわ!


で決めた方が、自由性があるやんか。




責任や、戒律や規律で縛られた掟だから、じゃなくて、単に自分が好きだからというやつよ


それを人にどーのこーの言われても、正しいからというより、まず好きなんだよーこれが( ・∇・)


っていうたら
理屈でどーのこーの言われても左から右で、あっそうかそうか、君はそうか。と捨てる事もせんと肯定までしてやる言葉が出るやんか。




理屈で正しいと
本心で好きというのは


違うのよ。


言い合いや争いにならん。



 



子供は血が繋がっているから責任を負わないといけないのだ!


というのと



自分で産むと決めて、好きで生んだのだから、そこから発生する責任なんて当たり前に負うに決まってるじゃない
私が欲しくて生んだんだから普通よ。



というのは、責任の大きさは一緒でも、本人にくる負荷は違う。






何々するべき、ととるか
好きでやるのよ、とするかの違いよ







やけん、やりたいことをせないかん
というのはそこにある


じゃないと責任の重さの感度の違いから長続きするかせんか、身になるかならんかの違いが出てくる



生活しなければならないから、働かないといけなくて、そこに勝手に責任が発生するんだよ!っていうのは、癌になるぞ









私も流石に神からお前に責任がある!責任を放棄する気か!ちゃんとやれ!って言われたら


重苦しかった




やけん、責任があるけんやる!ってなったら長続きせんし嫌になるし荒れるし余裕はないし、低くなるし、人間染みてくるし


じゃなくて、こっちがやりたくてやったんだから、お前に言われる筋合いもなく勝手にするけんお前が付いてこいって思う。




やりたいけんやるっていうのは、そこに責任が起きても背負える


でもやる気もないのに、やらざるをえんなったときにある責任は、ハッキリというて背負えん。



それは本人のその時の状態で器が違うけんながよ。






やけん好きでやる事は


好きでもないに生きるには仕方なくやる事よりも



よっぽど気楽に責任を負えるということよ。






それは、世間が基本やなくて、自分本意の決め事やけんなが。




世間中心やなくて、自分本意やけん、不満が少ないしストレスもそんなには出んわえ。







何を中心として捉えるかの基本よ。











大概自分が苦しい事を不幸というやんか


本心無視るけん苦しくなるがよ。