「………ふぅ……。」
麗しの王太子殿下は、何度も何度も振り返り、手を振ってくる。
その姿が視界からやっとなくなり、数分が経過して。
ニワトリの着ぐるみ『坊』は、自身の頭部をつかむとゆっくりとそれを外した。
「………………。マロニエ……。」
座りにくい着ぐるみ姿のまま、苦労してその場に腰を下ろすと、そこからぼんやりと視線の先にあるマロニエの木を見つめる。
あの花が咲く時に、キョーコはクオンとの再会を果たすはずだった。
本来であれば、その時に出会い、勘違いを訂正され、そして今頃はローリィに任せている領地に帰り、今まで通りに己の収める地の民と共に、力を合わせて実りある豊かな地となるように尽力しているはずだった。
「………フフフッ。」
それなのに。今のキョーコは……。
「掃除もお料理も、楽しいものなのねぇ……。」
己の屋敷にいるときは、触れさせてもくれなかった清掃道具や調理器具。
それらを使い、体を動かすことは、キョーコの性分にはとても合っていた。
そして、そんな生活をすることで。
クールビューティな友人と懐の深い夫婦と出会うことができた。
陽気な騎士達や、厳しくも面倒見のいい女官にも出会うことができた。
もちろん、エリカのような特殊な人間と関わることなど、今までの守られるだけの生活ではありえなかったこともあったけれど、それもいい経験だった。
「無駄なんかじゃなかったわ。…むしろ、とても充実した日々だった。」
「そうでしょうかね?お嬢様にこのような着ぐるみ生活を強いる結果となったのは、我らタカラダ家の汚点となりかねませんが。」
「あら。着ぐるみを喜々として勧めてきたのはあなたじゃない。」
「私なわけがないでしょう?……父ですよ。」
「さすがローリィね!!面白いことを考えつくわ!!」
「……お嬢様は本当に、器の大きなご主人様ですよね……。」
いつの間にか隣に立っていたコウキに驚くでもなく笑顔を向ける。
彼の父親は、キョーコが驚くようなことを「サプライズですよ!!」と嬉々としながら起こしまくる人ではあったが、主人に着ぐるみ生活をさせようとする人物とは思っていなかった。
彼自身は、家令だというのによく王族のコスプレや異国の奇妙な置物の中に潜り込んで誰にも気づかれることなく放置され、逆ギレするようなこともしていたものだったが。
「ねぇ、コウキ。」
「はい、何でしょう?お嬢様。」
二人して、ローリィのことを考えながらぼんやりとマロニエの木を見つめた後、キョーコは静かにコウキに話しかけた。
「これは命令ではなく、お願いなんだけれど。」
「お嬢様。あなた様の『お願い』は、我らタカラダ家にとっては『命令』と同義です。」
「………そう……。」
「今までは、あなた様を影ながらお支えすることを我らの使命としてきましたが……『タカラダ』の力を知ってしまわれた以上、あなたの口から出されることすべてを、叶えることを旨といたします。……あなたの言葉にはそれだけの力があることをお忘れなきよう。」
「…………。」
重い、荷物が両肩に乗ってしまったような気がする。
キョーコの口にする言葉は、もはや彼女自身にだけ影響されるものではないと、そう言われているのだ。
「むろん、我らはただあなた様の命令をきくだけの存在になる気はありません。あなたが道を外れる可能性があるのであれば、忠言もいたしましょう。」
「……えぇ。」
穏やかに微笑み、そう加えるコウキの口調は、いつもふらりと屋敷を訪れていた、優しい青年の時のものと変わらない。
「ですが。我らにとっての主はあなた様。あなた様の願いや幸福のためならば、犠牲を厭うつもりなどありません。」
「誰かの不幸が想像つくのに、それを犠牲にしてまで幸せになりたいなんて……本当に、心から思えるかしら……。」
キョーコの幸せは、クオンの隣に立つこと。
先ほどまで隣に座り、落ち込んだり笑ったりしていた彼の人を、支えられる人間になれればと、ずっと思ってきた。
けれど、その願いが、クオンの意志に反したり、彼が想う相手を貶めることにつながるものなのだとしたら、それがキョーコの幸せと言えるものとなるだろうか?
「心から思える者もおりましょう。…しかし、キョーコお嬢様がそれに該当しているかといえば…していない、と私は思っておりますよ?」
「ふふっ、本当に身内贔屓よね。ローリィも、コウキも。」
キョーコ自身、誰かに恨まれるようなことを意図してやってきたとは思っていない。それでも、キョーコがいることで不幸になった人間はいるだろう。
……多分、その最たる人が、母親なのだろうが……
「それでも、やっぱり私は、『私の幸せ』のために生きたいわ。」
母を不幸にして生まれた命。
その後の人生においても、誰も傷つけることなく生きてきたとは思っていない。
でも、生まれたからには、『幸せ』になりたいのだ。
そのために、あがきたいのだ。
「えぇ。幸せになってください。それこそが、私どもタカラダ家の人間にとっての至福。あなた様の幸せが、我々の何よりの誇りなのです。」
「…………。」
恭しく頭を下げるヒズリ国の宰相。
彼のような権力者にとって、一番の望みが『キョーコの幸せ』である現実は、未だ心に重くのしかかる。
キョーコの一言の重みは、これまでの『お願い』を口にする時の比ではない。
けれど…。
それでも。
「ねぇ、コウキ。」
「はい、お嬢様。」
恭しく、キョーコに頭を下げるコウキ。
完璧な所作は、もはや片田舎に帰ってきては、へらりと人の好い笑顔を浮かべていた人物と同一視はできない。
そんな国の権力者に対し、キョーコは。
「王太子殿下の…愛しき娘を、連れてきてくれないかしら?」
一個人の我がままな願いを、口にしたのだった。