冬至を迎える前に、琴姫の願いを叶える事ができました。
分かりにくい文章で申し訳ありませんが、載せます。
「もはやこれまで。信輝、お前は城を抜けて野に下れ。」
信輝は父と共に討ち死にする覚悟であったが、
父の言葉に従い、数名の部下と共に城をあとにした。
信輝の父は、非常に厳格な男であった。
勇儀をもって家臣を従え、禄を与えた。
民には役務を求め、施しを与えた。
大樹のようにみなを守りながらも、
何者もその幹に触れることができない孤高の存在、
父は、たとえ家族であっても決して自分に寄り添うことを許さなかった。
焼け崩れる城から聞こえる勝どきの声を背中に受けながら、馬に鞭を打つ
信輝は、ついに父に頼ることを許されなかった
そして、父に頼られる事も叶わなかった。
城跡に草木が生い茂るある夏の日
信輝は、あの日のことを思い出していた、
盗賊から琴姫を救った日のことを。
琴姫の城に潜り込んだ信輝が城内の誰からも慕われ信頼を得ていったのは、
信輝の謀略ではなく、父親譲りの義勇の厚さ故であった。
鷹狩りの日、ついに信輝が父の無念を晴らす日が来たのだ。
父の敵を討つことが愛する琴姫の父親を殺すことであると分かっていたが、
信輝には、琴姫を待ち構えている悲しみを想像することができなかった。
武士の息子として生まれ、生き、その役割を全うしていた信輝にとって、
敵討ちは必然以外の何ものでもなかった。
それを行うのも、その顛末を受け入れることも。
琴姫もまた同じ、そうとしか考えられなかった。
父が落馬して命を落としたと聞かされた琴姫が信輝の胸で泣いたとき
信輝の心の中で何かがざわめいた。
信輝の腕の中にいたのは、姫として振舞って来た気丈で気高い琴姫ではなく、
父親を失った悲しみの中で愛する者にすがる1人の女性だった。
琴姫は、信輝の幹にすがったのである。
信輝は、言いようの無い失望に良く似た怒りを感じていた。
決して頼ることを許されなかった父親の幹、
それ故に誰にも触ることを許さなかった己の幹に、
愛する女性がすがっているのだ。
信輝は、琴姫への愛が失望に変わっていくのを感じていた。
本当は、その失望が幼き日の自分に向けられていたことになど、
気づくはずもなく
信輝の敵討ちが琴姫の知る所となり、琴姫は修羅に落ちていく
琴姫は最後の望みを託そうと、信輝をあの天守閣へと呼んだ。
約束の時刻、信輝は天守閣に火を放ち、城を後にした。
「なぜ、火を放ったのですか」 私は問いかけた。
義勇に厚く恩義も硬い信輝だったが、
己の幹に触れたものへの感情はまったく感じられなかった。
琴姫への愛さえも永遠に凍り付いているかのようだった。
私は信輝の最後に立会い、彼の盾となり矢を受けた。
しかし何も変わらない。
救うべきは信輝ではなく彼のインナーチャイルドだという事は明白だ。
が、どうやって?
何度も彼の人生へと足を運んでいた私は、
今日もまた城を背にして森を進む信輝を眺めていた。
すると、ふいに盗賊段が信輝に襲い掛かった。
武に長けた信輝とはいえ10人からの盗賊~落ち武者崩れの盗賊たち~
を相手に勝てるはずも無い。私は盗賊の前に躍り出た。
「見ず知らずの旅人に守られる筋ではない、私の後ろへ下がっておられよ。」
信輝は最後まで武士を貫くのだ、それ以外の生き方を 彼は知らない。
私は信輝の頭を力の限り引き寄せて、彼の額を自分の額に打ち付け 叫んだ
「信輝、我は黄泉から参じた大樹である。今は我が幹にすがり生き延びよ。」
一瞬の静寂が、ずいぶん長く感じられた。
「かたじけない、かたじけない。そなたの恩義忘れることなく持ち帰るぞ。」
一筋の涙を流した信輝は、森の奥へと消えていった。
さらにいくつかの夏が過ぎた後、
信輝が父との再会を果たしたその場に私は立ち会った。
父と子は硬く抱き合ったままお互いの人生に思いを馳せ
再会の喜びに涙を流した。それは、武家の親子の再会でも有り、
父と子の出会いでもあった。
美しいひとりの女性となった琴姫が、微笑みながら親子の再会を眺めていた。
てんしょうがんねん、その言葉が私の頭の中に響いた
ググりました。。。
・・・・・・・!!!!!!
史実によれば、信輝は、池田 恒興としてその名を残している。
天文5年(1536年)一説には織田信長の乳母の子として生まれ、で父は織田信秀とも言われている。
信輝の名は俗説らしく古文書には見当たらないといわれるが、後世信輝の方が多く使われている。織田信秀に仕え、星崎城の戦いで武功を上げたのち信輝と名乗ったともいう。
弘治元年(1555年)尾張海津に戦い同3年謀反を起こした信長の弟信行を討つ。
元亀元年(1570年)浅井氏・朝倉氏との姉川の戦いで活躍し、犬山城主となる。
その後武田氏との長篠の戦いなど、信長の主だった戦に参陣。 後に摂津兵庫城主となる。
天正10年(1582年)甲州征伐で武田氏が滅亡するが、
密かに落ち延びた武田勝頼の三男・勝親を匿い保護した。
天正11年(1583年)美濃国にて13万石を拝領し大垣城主となる。
天正12年(1584年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは秀吉方として参戦。緒戦で犬山城を攻略したのち、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり、長久手にて長可とともに戦死、享年49。
天正元年(1573年)、彼らに何があったのか、歴史には刻まれていない。
・・・案外疲れた。。。