愛犬が逝ってしまった。1週間前からご飯を食べなくなり、昨晩旅立った。
ラブラドールで16歳と7ヶ月という大往生である。人間が犬を人間のように扱い、犬も自分を人間だと思いながら生きていると、辛い別れになるのだろう。愛着という執着が、人の心を苦しめる。今日行った動物霊園には、犬や猫の魂というよりは、飼い主たちの哀しさでできた念のようなもので充満していた。
形あるものはすべて滅びる運命にある。滅びて、また生まれる。
ほとんどの生き物が生きていないと考えるか、生きていると考えるか。
どう捉えるかはその人の自由だけど、形は伴わない期間はきっと長くて、深大なものであり、死ぬとは、その無から再生への過程に入ってゆくことなのだと、僕は信じる。
死を含める、形ないものの解釈として、宗教がその役割を担ってきた。特に、チベット仏教の輪廻転生はとても”面白い”死生観だ。
1950年代、毛沢東はダライ・ラマ14世に「宗教とは人を腐らせる阿片である」と告げる。
そこから約半世紀以上、現在のチベットの悲劇は続いてきた。形のないものへの理解がない者達から、大切な教えを守り抜いてきた。ダライ・ラマ14世が亡くなったら現在は穏健派であるその下のチベット僧たちがどうなるかと思うし、パンチェン・ラマの過激派も一触即発の状態だという話を聞く。
確かに、来世利益しか考えていないチベット人はかなりいるのだという。現世での楽しさや喜びを求めないで、ひたすら来世志向であると生活に支障が出るし、社会基盤も脆弱になるだろう。それでは本末転倒だ。
とはいえ、自分たちが恐れるものを、焼畑のように破壊したところに、中国の最大の過失がある。まだ中国当局はその過ちを認めていない。人はバランスを失い、過ちをおかしうる存在なのだ。過ちに過ちを怨恨や復讐によって上乗せし、世界は疲弊しきっている。その通過点が9.11だろう。
ところで、9月に、中国での展覧会の合間をぬって、チベットへの写真撮影に行こうと思っている。また水先案内人として。。 僕にとっては二度目のチベットだが、前回とはきっと状況は変わっていることだろう。人類にとって、何が普遍で大切なものなのか。またヒントを見させてもらえれば、それ以上の喜びはないです。