子供の頃に私は、近い将来に第三次世界大戦が起こって、
自分たちはほぼ確実に、どこかの段階で核に焼かれて死ぬのだろうと思っていた。
誇張ではなく、私たちが昭和40~50年代に学校で受けた平和教育は、
そういうイメージを抱かせるに十分なものだった。
「平和学習」の時間になるたびに、ほぼ必ず見せられた原爆の映画は、
米軍が公開した映像がもとになっていて、
原爆投下から数日後の広島の被爆者の姿、
火傷の状態やケロイドの無惨さなどがはっきりと記録されており、
また、被爆者の見た地獄や、その後の原爆症の救いの無さなどが、
幾多の証言を交えて克明に描かれていた。
そもそもあの頃は、まだ児童生徒は大半が被爆二世で、
親も祖父母も誰もが大抵、被爆体験があり、被爆者手帳を持っていたので、
壮年期の大人たちが原爆検診に行くのは普通のことだった。
だから我々子供達にとっても、原爆は決して、済んだ話ではなかった。
今、目の前に核兵器はなくても、外国にあることはよくわかっていたから、
今度は自分たちの番が来るのではないか、という恐怖は日々感じていたのだ。
当時はまた、米ソの冷戦状態が急速に緊迫化していた時期でもあり、
前の戦争が昭和20年に終わって、数十年経ったことだし、
そろそろ次があるのだろう、という気分になることが、結構あった。
現に、私が小学校の高学年になるまでベトナム戦争は終わらず、
何年にもわたって世界各地で地上核実験が絶え間なく繰り返され、
日本の空にも放射性物質のフォールアウトが降り注いでいた
(例の、「雨の日は、ちゃんと傘ささないとハゲるよ」の頃だ)。
さらにアメリカの人工衛星打ち上げ失敗なども相まって、
プルトニウム降下量が現在の1000倍だった時代もあったようだ(参考:気象研の資料など)。
あの放射性降下物による被曝量は、年に数百マイクロシーベルトだったという記述を
以前見たことがあるので、仮にこれを200としても、
毎日0.56マイクロシーベルトは余計に被爆する時代だったようだ
(現実には外に24時間、裸でいたわけではないので、被曝量はもっと小さかっただろうとは思う。
しかし水道水や海産物の汚染等の問題は、どの程度注目されていたのかいなかったのか)。
今にして思えば、私たちはそうやって、
プルトニウムとセシウムが、それなりに空から落ちて来る中で何年も育ったのだが、
幸運だったのか人間は案外強いものなのか知らないが、一応目立った健康障害もなく成長した。
広島も長崎も、被爆二世の健康問題は現在まで全く証明されたことがないし、
全国的にも、昭和30年代生まれの子供の多くが少年期に甲状腺癌を発病した、という話は無い。
そういえば、今考えるとゲンナリしてしまう話なのだが、
私達は冬に「雪を何個食べることができるか」をよく競争したりした。
雪の降り始めに口を開けて待っていて、空から降って来る雪粒を次々に食べる遊びだ。
平和学習をしていながら、一方で科学的な認識にはかなり穴があって(大汗)、
親から「ハゲるよ」と言われた雨と違い、雪はきれいに見えていたようだ。
どういう危ない遊びをしていたんだろうか(大汗)。
そして私が高校生だった昭和50年代半ばには、テンフィート運動
(アメリカ国立公文書館所蔵の原爆記録カラー映画フィルムを、
10フィートを1単位として、一般からのカンパにより日本に買い戻すという市民運動)
が実を結び、私たちは更にパワーアップした原爆記録映画を学校で見ることになった。
上映中、友人が体育館で吐いて倒れたのは、コレだ(大汗)。
なんしろカラーだったから、火傷は真っ赤だし、焼死体は黒いしで(逃)。
そのようなわけで、私は大学に入って広島を離れてからしばらく経つまでは、
夜、よく原爆や核戦争の夢を見た。
もうじき爆弾が炸裂する、という設定もあれば、
映画で見たのとそっくりな地獄絵の中を自分がさまよう夢もあり、
シェルターには到底辿り着けず、もう死ぬ!と絶望して、
目覚めたときは、いつも動悸が激しく、落ち着くのに時間がかかった。
最近の用語で言うならPTSDに近かったのではあるまいか。
大学の友人に聞いたら、原爆映画などあまり見たことがない、という返答で、
どうやらこういうことに熱心だったのは広島と長崎だけ?
いや、ひょっとしたら私の行った学校だけ?と、とても驚いたものだった。
だが、つい先日ふとしたことから主人が、
「わし、小学校の頃、死の灰が降る夢、ようみたよ。
布団の上に起き上がって、夜中に恐怖で大泣きしたこともあったもん」
と言ったので、少なくとも私一人の体験ではなかったというウラは、取れた(汗)。
一方、娘は小学校の途中で、転勤のため今治から広島に移って来たのだが、
私が受けたような平和教育は、ほとんど経験しなかったようだ。
語り部の方々のお話を聞く・原爆資料館に行く・被爆体験記を読む、
などは学校の授業の中であったが、10フィート映画など知らないということだ。
従って娘は、核爆弾で焼かれて死ぬ夢を何年にも渡って繰り返し見た、
などという経験も持っていない。彼女の眠りは一貫して深く安らかだ(苦笑)。
また娘は、資料館をかなり本気で怖がっていた。
私などの感覚からすれば、あれは数ある原爆資料のごく序章的な部分に過ぎず、
最大公約数的なところだけを展示したものだと思っていたのだが。
娘と私は年齢差というか学年差がほぼ30年あるわけだが、この間に、
広島の平和教育は、いつかどこかで、穏健なものへと変化していたのだろうか。
さて、今になってこんなことを書いたのには、理由がある。
連日の原発事故の報道に端を発して私は、原子力というのが我々にとって、
いかに手強いものであるかを、久しぶりにひしひしと感じるようになり、
「この感覚は、遠い昔に、覚えがある」と思い当たったからだ。
そう、「核の恐怖」なるものを長らく忘れていたのだ、我ながら愚かしいことに。
夜眠ったら、何事も起こらず当たり前に朝が来て、家もちゃんとあり、
どこも燃えていないし、放射能で死ぬことになった人もいない。
こういう日常が、実は大変に幸運なものなのだということを、
なんと私は、小学生の頃のほうがよく知っていたのだ。
こんなかたちで、再び核の問題を突きつけられることになるとは予想していなかった。
本当は予想できた筈だったのだが、後回しにすることを自分に許していた。
私が(多分、「私達」が)、無責任にぬるま湯につかっていた間に、
考えなければならない問題は、実はどんどん山積みになっていたということに
私は、地震と原発事故をきっかけとして、ようやく思い至ったのだ。
ただ、現状で最も良いことは、とにもかくにも、
話の発端が、私の繰り返し見た悪夢とは違い「全面核戦争」ではないということだ。
このたびの日本の原発事故の状況は、まだまだ予断を許さないものであるとしても、
今、世界の大半が日本を支援してくれている。
地球規模の問題として、世界各国が日本に注目し、ともに考えてくれている。
そしてこれを契機として、日本に暮らす私たちは勿論のこと、
世界中の人たちが、エネルギー問題と真摯に向き合うことを始めるのではないだろうか。
これは、幼かった私が怖がっていた未来像より、ずっと幸福な状態だ。
そのことに感謝するとともに、今後について考えるため、私は敢えて、
昔の眠れなかった日々を今一度、思い出して、肝に銘じたいと思っている。