井上靖『淀どの日記』、昨日今日でほとんど読了した。
淡々とした文体なのだが、展開が巧みで、読者を惹きつける本だった。
こういう小説と巡り会えたのは、たかこさんの御陰だと思うと有り難い。
あとほんの少し残っているのだが、
読み終えてしまうのが勿体ないような気さえする。
映画ではどこに焦点を当てることになるのか、まだわからないが、
幽閉同然の茶々の少女時代、政略結婚に翻弄される女性たちの姿、
ひとりの男性を正室側室で取り囲むような結婚の実態、
など、現代の我々の生活感覚では感情移入しづらい設定が多々あるし、
また、仇敵だった男性に対して抱く思いがけない執着や、
我が子への溢れる慈しみ、息子を権力者にするまではと思う業の深さ、
等々は、宝塚歌劇団の主演者だったたかこさんには、
おそらくほとんど実生活上の接点が見いだせない事柄ではないか、
という気がした。
しかし、演技者であれば、「経験がないから理解できない」、
だから「演じられない」、とは思われない。
かのスタニスラーフスキーが、演技の組み立てのために、
経験から来る感覚の再現を重視したからと言って、
狼少女をやるために山で野生動物として暮らしてみるという、
紅天女候補・北島マヤの方法論は、いかがなものかと私は思う。
演じる本人が、一度も経験したことのない事柄でも、
また、本当はどうだったか知りようのないことでも、
『なるほど、そうだったかもしれないな。わかるような気がする』
と観る者に感じさせるのが、役者の仕事ではないか。
それは必ずしもリアリティなど伴わなくて良いと私は思う。
それどころか、大嘘だったとしても、一向に構いはしないのだ。
観客の心に触れ、感覚的なところで深く納得させ、
その気持ちを揺り動かすものでありさえすれば。
観客は、虚構でも胸躍るようなものをこそ支持するのであって、
つまらぬ事実や現実なら、代金を払ってまで確認したいと思わない。
ここまで考えて、私はハタと思い当たった。
たかこさんは、これまでずっと、「男」を演じてきた人だ。
女性に生まれた以上、どんなに努力しても絶対に経験してみられない、
「男」というものを、演じ続けてそのことで人気を集めるのが、
彼女に課せられた、宝塚の男役としての役割だったのだ。
経験がないから、想像が及ばないから、などということは、
このような人にとって、今更、一体、なんの妨げになるだろうか。
ただ、技術上の問題に関しては、それで全部解決するわけではないのが、
なかなか、ツライところだ。
昔、某男役が宝塚の公演で初めて女役を務めたとき、
ポスターの写真は物凄くキレイだったが、動くと新宿二丁目だった、
という思い出が、私の脳裏に、
今、鮮やかに蘇ってきているのもホントウだ(逃)。