先日自分自身をセルフコーチング兼リーディングしていて面白い発見があった。
ある人と数年ぶりに夕食を共にしたが、どうにも窮屈で退屈な感じがした。
人としてその方の技術としては信頼しているが、自分の中の何がそうさせたのか、、と言う探究。
まず最初に出て来たのは、
「完璧主義」と言う言葉、、
例えるならば六角形の正六面体が無限に敷き詰められた空間の様なもの。
そこを通り過ぎて見えて来たのは、
「自分がそうである様に他の人もそうでなければいけない」と言う観念、言い換えると「同調圧力」であり他者に対する過剰な忖度の様なものだろうか、
これも例えるならば、スカイツリーの様なものが先端部で上下ひっくり返したものが2つあり、上下の天頂部である真ん中でギリギリ釣り合いを取ってる感じ。
そしてその後、その中心部にある赤いワインレッドのキャンドルの様な存在の動的な何かを感じ取り、その対象に対して試行錯誤しながら「解除」をする事となり、その奥に誘われる。
その空間に今回の一連の「源なる存在」がただ佇んでいる事を確認し問い掛ける。
「なぜ人は人に対して尊重よりも押し付けを選択してしまいがちなのか」
それに対しての答えは、、
「限られたものの中で自分自身の存在の獲得をする為に自分と同じであるモノを増やして行かないとならないから、そうでないと消えてしまうから」
との事だった。
要するに、、仲間を増やしたい、何故ならば、席数の限られた席取り合戦的なゲーム的意味合いがあるので、いわば「自己保存」に関わる生存競争、「本能」と呼べるレベルに埋込みプログラムされた機能の様なものだと言う様な事だと思う。
これを聞いて、、なんと「仕方ない事なんだなぁ」と思った。
だって本能、「お腹減った」とかと同じレベルで「これが正しい、良い」って押し付けちゃう、そうゆうもんなんだなと。
ただこの気づきによって人や自分の「行動」は変えられなかったとしても今後自分がそうゆう人と接したり出会ったり、または自分自身がそう言った事をしてしまったとしても、その事自体を必要以上に気にしてストレスに感じたり裁く事は少なくなっていきそうだなぁと、、気が楽になった。
「だって人間だもの」笑
そして最後にその「存在」が去り際にその「押し付け」のもう一つの側面を教えてくれた。
その機能が人間の間で正しく相互作用するために、アレルギー反応における抗原とレセプターの関係の様に、人に「罪悪感」というレセプターを埋め込んだと。
要は、「押し付けがましい人」は変えられないかもしれないけれど違ったアプローチとして普段から自分の「罪悪感」を手放すという方法もあるよ、、、という事らしい。
勉強になりました!
本日は以上⭐︎
