リーダーズコーチ・陣幸四郎のつぶやきブログ

リーダーズコーチ・陣幸四郎のつぶやきブログ

日々、リーダーズコーチ・陣幸四郎のつぶやきブログ。

Amebaでブログを始めよう!

先日自分自身をセルフコーチング兼リーディングしていて面白い発見があった。

 

ある人と数年ぶりに夕食を共にしたが、どうにも窮屈で退屈な感じがした。

 

人としてその方の技術としては信頼しているが、自分の中の何がそうさせたのか、、と言う探究。

 

まず最初に出て来たのは、

 

「完璧主義」と言う言葉、、

 

例えるならば六角形の正六面体が無限に敷き詰められた空間の様なもの。

 

そこを通り過ぎて見えて来たのは、

 

「自分がそうである様に他の人もそうでなければいけない」と言う観念、言い換えると「同調圧力」であり他者に対する過剰な忖度の様なものだろうか、

 

これも例えるならば、スカイツリーの様なものが先端部で上下ひっくり返したものが2つあり、上下の天頂部である真ん中でギリギリ釣り合いを取ってる感じ。

 

そしてその後、その中心部にある赤いワインレッドのキャンドルの様な存在の動的な何かを感じ取り、その対象に対して試行錯誤しながら「解除」をする事となり、その奥に誘われる。

 

その空間に今回の一連の「源なる存在」がただ佇んでいる事を確認し問い掛ける。

 

「なぜ人は人に対して尊重よりも押し付けを選択してしまいがちなのか」

 

それに対しての答えは、、

 

「限られたものの中で自分自身の存在の獲得をする為に自分と同じであるモノを増やして行かないとならないから、そうでないと消えてしまうから」

 

との事だった。

 

要するに、、仲間を増やしたい、何故ならば、席数の限られた席取り合戦的なゲーム的意味合いがあるので、いわば「自己保存」に関わる生存競争、「本能」と呼べるレベルに埋込みプログラムされた機能の様なものだと言う様な事だと思う。

 

これを聞いて、、なんと「仕方ない事なんだなぁ」と思った。

 

だって本能、「お腹減った」とかと同じレベルで「これが正しい、良い」って押し付けちゃう、そうゆうもんなんだなと。

 

ただこの気づきによって人や自分の「行動」は変えられなかったとしても今後自分がそうゆう人と接したり出会ったり、または自分自身がそう言った事をしてしまったとしても、その事自体を必要以上に気にしてストレスに感じたり裁く事は少なくなっていきそうだなぁと、、気が楽になった。

 

「だって人間だもの」笑

 

そして最後にその「存在」が去り際にその「押し付け」のもう一つの側面を教えてくれた。

 

その機能が人間の間で正しく相互作用するために、アレルギー反応における抗原とレセプターの関係の様に、人に「罪悪感」というレセプターを埋め込んだと。

 

要は、「押し付けがましい人」は変えられないかもしれないけれど違ったアプローチとして普段から自分の「罪悪感」を手放すという方法もあるよ、、、という事らしい。

 

勉強になりました!

 

本日は以上⭐︎

 

 

 

 

良く「自分を信じましょう」と言うけれども、私はこう言った言葉を聞いた時に本音を言うと、少し戸惑い、混乱する。

 

自分を「今以上に」信じましょうと言っても、具体的に何をどう信じて良いのやら良くわからない。

 

そもそも自覚は無かったが今現在「あるべき姿」と比べて自分を信じ切れていない自分に対して少し失望すら感じ、結果として、自分を信じよう信じようと思えば思うほど「自分を信じましょう」の云わんとするところから離れてしまう様な気がする。

 

云わんとする所は分かる、恐らく「自分がやりたいと思う事や言いたいと思う事は善し悪し、正解不正解を気にせずにやってみたり言ってみたりすると良い」と言う様な趣旨という事は分かる、まずそうしないと何も動き出さない、始まらないと。

 

、、、とそんな事を考えているとふといつもの「声」が聞こえる。

 

『そんな事誰が言うた?』

 

お、今日関西弁か、、そんな事を考えているとその声は続く

 

『「自分を信じよ」などと私は言っていない。「◯◯を信じよ」とは言った』

 

言ってない、、確かにそうでしょう、他の人から聞いた、、と言うかある意味人間教育や自己啓発の常識と言うか、、◯◯って何でしょうか?

 

『◯◯の中身は何でも良いのだよ、もちろん「自分」でも良い、自分でなくても良い、自分を信じ愛してくれる人でも良いし、人でなくても良い、物事でもお金でも、、』

 

はぁ、、そうなんですか、これまた範囲が広い

 

『「何事も何となく信じてる様な、疑っている様な」と言う状況が1番もったいない、モヤモヤと。何でも良いから「こうである」と強く信じ、定義ができている状態の方がよっぽど大事、もっと言えば「◯◯は光である」と言う事だけが真実でなくても良いのだよ、本当に「何でも良い」ともかく思いっきり「自分の世界は◯◯である」と宣言してしまったもの勝ちなのだよ』

 

そうだったのか、今まで人生の「答え探し」をして「あーでもない、こーでもない」となっていたけど自分でしっかり信じると言うか定義する事が大事なんだなぁ

 

『もっと言えば信じる事、定義する事はより言い換えると「praise」する事なんだよ』

 

「praise」ですか日本語翻訳すると、、、

 

『翻訳などしないで良い、言葉には言葉そのもののエネルギーや言語化し切れない意味の様なものがあるpraiseはpraiseとして受けとめ、噛み締めてみなさい』

 

そうですか、今日もありがとうございます、今日教えて頂いた事を今後時間をかけて自分の中で噛み砕いて行きたいと思うので忘備録としてそのまま書き留めますね。

 

と本日はこれまで♪

 

 

 

 

 

 

「ハイアーセルフ」と「ピプノセラピー(前世療法)」について、私はこの2つの概念を広く対人支援や何らかのカウンセリングで用いる事について基本的に疑問を感じる、と言うか必須とは思えずむしろ「弊害」の方が顕著に思える。

 

まず「ハイアーセルフ」に関して、こちらは諸説あるが心理学者のユングあたりが集団無意識やらの概念と一緒に「高次の自我」と言う様な概念として定義したのが始まりだそうな。

そして前世について、こちらも諸説あるが人が「個として」幾度も不滅の魂を持ちながら生死を繰り返し色々な時代、様々な立場を経験しながらこの地球を生きていると言う様な話。

 

この2つの概念が正しいか間違っているかを明かにしたい訳ではない。

 

正誤で言うならば、どちらかと云えば正しい様な気がする。

 

損得なしで天才的と思えるアイデアが思考の隙間から差し込んでくる事はあるし、自分自身の人生経験を超えた経験に自分ごとの様に強い共感を覚える事は誰しも多い。

 

ただし、この2つの概念の用いられ方が気に食わない。

 

何かというと、ハイアーにしろ前世にしろ「今ここにある様々な感情や想いを持った生身の自分」に「代替不可能な上位存在」の様な位置付けとして語られ利用される事が多いからである。

 

日頃、例えば仕事上の関係であったり、友人家族の間でなされるコミュニケーションであれば共有できる会話の目的や価値観、、事業や案件の利益やバリューの最大化、経済性、一般的かどうか?などある種の「会話の定規」の様なモノがおぼろげながらも存在するのでコミュニケーションに置いてお互いが譲歩し妥協点を現実的に模索して行く事が出来る。

 

しかし、前述の様な場において相談者自身が「どうありたいか」「どの様に生きたいのか」と言う在り方を明確に言語化する事は稀有である。

 

そもそも「自分に軸がない」「物事の解決策、答えが一つである」と言う事をどこかで信じている状態の人が相談者、対人支援者の世界観のキーワードの様な気もする。

 

そう言った場で「ハイヤーセルフ」「前世過去生」は「今の生身の自分」に対して設計図か何かの様に支配的な上位階層の様に語られる。

 

「あなたはこうして欲しいと私は感じます」

 

とシンプルに言えば良いところを、、、

 

「あなたはこうした方が良いと◯◯が仰ってます」ないし「あなたの前世ではこうゆう事がありこうなってしまったのです」と言う事が施術者の視点で語られる。

 

歴史でも何でも一方的な視点で語られた物はフィクションと変わらないし、その恣意的な意図で編纂された「歴史」と言う情報が現在を生きる人々の生きる指標にはなり得ない。

 

また、例えばあなたが会社の支部、支店の一員だった場合を思い浮かべて欲しい。

支部長、支店長会議、幹部会議から支店長が持ち帰って来た企業の長の言葉と自分自身が直接そのトップと接した時に感じたメッセージには乖離がある物です。悪気や作為があろうと無かろうと。

 

前にダルビッシュがTwitterで「震災や災害などに寄付はしないのですか?」と言う質問に対して「答えの選択の余地や自由がない様な質問はする物ではない」と言っていた。

 

要するによっぽど気を付けないと「思考停止とマインドコントロールの手段となってしまう」という事です。

 

タバコやお酒や賭博が悪いわけでは無く、その扱い方が大事だと思うのです。

 

 

 

 

 

本日は一問一答形式にて。

 

私「良く瞑想やチャネリング、直感を研ぎ澄ます時に「思考を止めて」と言いますけれども、正直良く分かりません。いつも色々と考えてしまいます。これは煩悩まみれでダメダメという事なのでしょうか?」

 

○『思考を止める必要はない、その方が繋がりやすく直感が鋭くなると?、、その様な事は無い。思考を止める事によって直接得られる事はせいぜい「眠くなる事」くらいだ、自然に湧き出る思考を無理に遮断しようとすると眠くなる、、ただそれだけだ』

 

私「はぁ、私は眠くなる事さえ出来ません、いつも色々と考えが巡って」

 

○『そもそも「思考を止めよ」というのは、その昔、宗教的な指導者が信者に指導をする時にどさくさにまぎれてその信者の判断能力や思考能力を弱めて無抵抗にマインドコントロールに掛けた方が色々と都合が良い事に気付いて言い出した事に過ぎない。もちろん思考を止める事がその本来の目的を果たさない訳ではないが、それは「皆が思考を止める事が出来れば意識が研ぎ澄まされる」と信じている限りにおいて、、という事に過ぎない。』

 

○『今現在「思考を止めよ」と人に教えている指導者は「思考を止めた結果」昔から脈々と受け継がれている慣習を無批判に何も考えずに踏襲している様に見える』

 

私「こりゃ手厳しい笑!、、しかし、なるほど、こう言った精神世界の入り口で多くの人が戸惑う理由が少し分かった気がします。」

 

○『敢えて今風に言うならば「理性や情に流され過ぎて、過度な忖度をすると何事もズレてしまう」と言う事くらいだろうか』

 

私「おぉ、、今風ってどのくらいのタイムスパンで今風なんでしょうか笑?10年?100年?、、、と話が逸れました。確かに、、直感や閃きにしても普段の思考の合間から不意に差し込んでくるものですものね、思考を悪者にするのではないと!」

 

○「うむ」

 

今日は以上!

 

 

今日のチャネリングメッセージ

 

『何よりも信ずるべきは、、世の常識でもなく、親や兄弟、身近な友人同僚、でもなく、また、あなたにとっての恩人、メンター、スピリチュアルリーダーの言葉でもなく、、あなたの感覚を信じなさい。言わずもがな「私」や「我々」の言葉よりもまず優先すべきはあなたの感覚です。そもそも、その為にあなたに「肉体」を「感覚」を与えた』

 

『そう言った隣人の言葉を採用した方がスムーズにうまく行く様に思える事は多いでしょう。然れども、あなた自身の感覚を信頼する訓練だと思って貫き通しなさい。そもそも、、「スムーズに行く」「うまく行く」と言うことは目先の「損得」以上でも以下でもないのです。優先順位によって自由に使い分けられる様になりなさい』