今日も弥生時代の話で
まず、昨日の続き
勾玉の正体はそら豆!
https://ameblo.jp/razyob/entry-12625073379.html
勾玉はマナ(食料)の壺に中身のそら豆って話
それで古墳の形
これを壺の形だという話があるわけなんですが
壺の形だったら古墳は墓じゃなく
食料貯蔵に使ってたんじゃないかと思いまして
米を保存したり
もしかしたら当時そら豆も結構栽培してたのかも
それかそら豆の代用の大豆
大豆を保存すると発効して納豆や味噌になったり
米から酒造ってたり
そんなんなんじゃないかなあ~と
話変わりまして
【韓国】 文字も衣服もない原始生活をしていた日本に百済が文物を伝えた~天皇は奈良百済の総督の様なもの
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1600207407/-100
また適当なデマをばらまいてるわけですが
困るのは日本の売国学者やメデアとかが騙されてるのかわざとか、
一緒になってデマ広げてまして
こないだも書いたのですが
百済なんてもんができるもっと前の卑弥呼の時代
https://ameblo.jp/razyob/entry-12618642921.html
魏志倭人伝http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
>稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。
倭国では当時から養蚕やって絹を作ってたわけですが
これを特徴として記述してるなら魏や総督府を置いて支配してる朝鮮半島では
絹織物やってなかったように思うんっすけど
だからって日本がルーツと言うより紀元前から呉と交流があって呉服とか作ってたわけでしょ?
シナの北部や半島では絹はなかったのかもね。
それと稲も、米を送ってあげて喜ばれてるわけで、
シナの北部の魏や半島ではやっぱ気候的に稲作は無理だったのかな。
それと文字ですがやっぱり魏志倭人伝の記載
女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。
>文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、
百済なんてない時代に文書が存在してます。
もっと後の時代に百済から1万人くらい人を連れて来たって話で
それが文字や衣服を伝えたとかいうデマが横行してるんだけど
そもそも日本が朝鮮とこっちを船で往来してて
あっちは航海もできずにやってきた倭人にヤラれっぱなしで支配下だったわけで
自分らで船で日本にわたって文化伝えたわけでもなく
船に荷物のように積み込まれて
奴隷として働かされたのが実態だと思うよ
こんなのが文化伝えた風にすり替えてたら
あと数十年もしたら
大正から昭和にかけての日本の文明の進歩も
日本に出稼ぎに渡ってきた朝鮮人が文明を伝えたことにされちまいそうな