卑弥呼=倭姫命 壱与=神功皇后 | V『らじょび生活。』

邪馬台国に関しては今までもブログで書いたり

その後も色々考えてるんっすけど

やっぱ魏志倭人伝の地理的な記述を追いかけても記述間違ってるんだろうから

どこだろうと記述と矛盾しちゃうわけでして


【邪馬台国】「邪馬台国はどこにあったのか」 考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は

https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1597017450/-100


【邪馬台国】「死せる孔明 卑弥呼を・・・」孔明死去→仲達、公孫氏(朝鮮)征伐→卑弥呼、魏に従属

https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1597017450/-100


そうすると他の内容

特に古事記とかの日本の文献と魏志倭人伝をすり合わせて

卑弥呼が誰かとか他のキャストを当てはめれば大体わかるじゃんと思うのですが



魏志倭人伝http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm


其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛


 その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。


結論から言うとこの人


 

倭姫命

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%BD


弟って言うのが


景行天皇

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E8%A1%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87


それで


卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與


卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。


男王ってのが

景行天皇の息子の

成務天皇か早死にした仲哀天皇

卑弥呼の次の女帝の壱与が仲哀天皇の嫁の神功皇后


神功皇后

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E





説明するとまずですねー


その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。


ここ7,80年後ってな訳してるけど

原文は


住七八十年


これに点を加えて7~8-0年にしちゃってるけど古代の魏の国でそういう言い方ってしてたわけっすか?

ここは780年なんだと思うぞ

そうすると神武天皇が紀元前660年に即位して

西暦120年に卑弥呼が即位したことになるのでちょうどいい感じじゃないっす?


それで倭姫命は神様の落ち着く場所を探しまわって今の伊勢神宮を作った人で

初代の伊勢神宮の一番偉い巫女で、神様を扱ってるいので

弟だか兄か実際わからないけどの景行天皇より偉いという解釈もできて

まして魏に使いを出すんなら自分が一番偉いと言うんじゃないかと


時代背景としてはヤマトタケルトかが熊襲征伐とか東国に征伐に行ったり

まさに戦争に明け暮れてた

壱与は伊勢神宮の巫女だったので神宮皇后と呼ばれてたんでしょう。


たぶんこんな感じで間違いないと思いますよー。


それで伊勢の外宮の豊受様なんっすけど

先祖が但馬出身だってのも共通してるし

もしかしたら伊勢神宮の内宮の神様に仕えた

神功皇后を内宮に使えるトヨで豊受で奉ってるようにも思うんっすけど

どうっすかねー?


☆☆☆


で話変わりますが文化的な話でも色々思う事がありまして


>稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。


倭国では当時から養蚕やって絹を作ってたわけですが

これを特徴として記述してるなら魏や総督府を置いて支配してる朝鮮半島では

絹織物やってなかったように思うんっすけど

だからって日本がルーツと言うより紀元前から呉と交流があって呉服とか作ってたわけでしょ?

シナの北部や半島では絹はなかったのかもね。


それと稲も、米を送ってあげて喜ばれてるわけで、

シナの北部の魏や半島ではやっぱ気候的に稲作は無理だったのかな。