YUKI
『megaphonic』


 YUKIのニューアルバム『megaphonic』がリリースになりました。前作『うれしくって抱きあうよ』http://blog.livedoor.jp/raycat/archives/51471327.htmlから約1年半ぶりの新作です。YUKIはどちらかというと寡作というイメージがあったので、前作から時間を空けずに新作が聞けるのがとても嬉しいですね。

 インタビュー等でYUKI自身も語っていますが、『うれしくって抱きあうよ』が内面に向き合う曲が多かったのに対し、今作『megaphonic』は外に向かってメッセージを発信する、語りかける、そんな雰囲気をもつアルバムになっています。「megaphonic」とは直訳すると「最高の音」「最大の音」。タイトルからしても対照的です。

 内容は、エレクトロあり、メタルばりにエッジの利いたギターありと、相変わらず一言でまとめきれないような多彩さです。しかし、それでもアレンジや、楽器やSEのセレクトセンスには、随所に独特のアイディアが満載で、YUKIならではのシュールかつポップな世界観にまとめられています。

 やっぱり前作『うれしくって抱きあうよ』から、何か大きく変わったような気がします。YUKIの音楽はそれ以前もずっとカラフルでポップでしたが、前作、そして今作とその多彩さの中にも“根っこ”のような、揺るぎない核的なものを感じます。あえて言うなら、それは「愛」。家族や友人や、音楽や、世界そのものへの優しい目線を、全ての曲の中に感じることができます。

 昨年リリースされたシングルで、今作にも収録されている<2人のストーリー>という曲があります。その中の歌詞に「『生きてる』それだけが、代わりのいないストーリー」というフレーズがあります。言ってしまえば、よく聞く感じの、特に目新しくはないフレーズですが、僕は不覚にも泣きました。声のもつ説得力と言えばそれまでですが、単に歌が上手いとか、声が可愛いとかそういうことじゃなくて、「愛」とか、あるいは「母性」とか、そういう理屈でないものを感じさせる力があります。YUKIの声で歌われるからこそ、心の深いところで「あ、自分は生きててもいいんだ」と思えてきて、涙が出てきたんだと思います。へへ。

 もうすぐ40歳になるにもかかわらず、見た目は相変わらず少女みたいですが、バンド時代、そしてソロ時代の初期の頃と比べると、声の魅力にしてもオリジナリティにしても、いよいよ脂が乗ってきた感があります。このまま突き進んで、ビョークみたいな、誰も手の届かない高みへと行ってほしいです。
『天才 勝新太郎』
春日太一

(文春新書)

 酒とタバコと高級車。金遣いも遊び方もとにかく派手。そんな豪放磊落なイメージの陰に隠れた、創作者としての勝新太郎に迫ったドキュメンタリーです。いやあ、すごい本でした。「作ること」にとり憑かれ、一匹の“鬼”と化した男の姿が克明に記された衝撃の本です。

 勝新太郎は1950年代半ばに映画俳優としてデビューしました。当時は映画産業の華々しい勃興期だったので、比較的早い段階から主演を任されるようになりますが、市川雷蔵ら当時のスターと比べるとずんぐりした体形で声も野太い勝新太郎は、長い間B級の、映画会社からすれば「つなぎ」の映画の話しか回ってきませんでした。

 転機になったのは61年公開の『悪名』と、続く62年の『座頭市物語』。従来にはなかった、哀愁と猥雑さが同居したエネルギッシュなヒーロー像に、勝新太郎のパーソナリティーが見事にマッチし、一気にスターに上り詰めます。

 しかし、カメラの前で言われた通りに演技するだけでは徐々に飽き足らなくなった勝新太郎は、『座頭市』シリーズで監督や脚本、編集までを自らの手で行うようになります。映画会社から独立して「勝プロダクション」を設立し、「自分が作りたい作品」を目指して突き進みます。

 勝新太郎は徹底的に現場にこだわります。脚本家が上げてきた脚本が現場で捨てられて、その場で全く新しいストーリーができるなんてことは日常茶飯事。スタッフは混乱し、予算はガンガン嵩んでいきますが、それでも勝新太郎の考えるアイデアは誰よりも面白く、他のどんな映画よりも野心的で新しかった。だからスタッフは文句も言わず彼に付き合い、緒方拳をはじめ名だたる俳優たちが彼との共演を望みました。

 その根底にあるのは、「絶対にファンをガッカリさせない」という繊細なほどのサービス精神(あるいは強烈なプライド)と、「この役はどういう人物なのか」という徹底したリアリティへのこだわりでした。後年、黒澤明の『影武者』の現場で、黒澤監督の演技プランに対して「武田信玄はそんなことはしない」と言い放ち、それが監督の怒りを買って映画を降板することになりますが、これは彼が創作者として飽くなき探求心を持っていたがために起きてしまった事件と言えます。

 勝新太郎と聞いて僕が真っ先に思い出すのは、1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』での豊臣秀吉です。あの演技は強烈でした。強烈というより、もはや「怪獣」のようでした。主演の渡辺謙を掌で転がすように扱う圧倒的な存在感。政宗と初めて対面する小田原籠城戦の場面では、カメラテストまで一切渡辺謙と顔を合わせないようにして、血気盛んな政宗と老練な秀吉とのガチンコの緊張感を出した、なんていうかっこよすぎるエピソードがあります。

 とにかく規格外な勝新太郎。人はここまで芸の虫になれるのかと、感動を通り越して呆然とする思いです。本書のタイトルに「天才」とありますが、これは単に演技の才能があるとか、そういう上辺のことを指した評価ではありません。強いて言えば、「夢中になること」の天才。作品に対して、時に非常識にも狂っているようにも見えるほど没頭できる、その過剰な創作意欲こそが巨大な才能なのです。劇作家の鴻上尚史は「才能とは夢を見続ける力のこと」と言いました。だとすれば、勝新太郎はまさに「天才」と呼ぶに相応しい人物でした。
The Beatles
『Let It Be...Naked』


 1970年リリースのアルバム『レット・イット・ビー』。ビートルズ最後のアルバムとして知られるこの作品は、しかし同時にビートルズの歴史上最も「いわく」のついた作品でもあります。

 まず「最後のアルバム」という点に説明が必要です。このアルバムのレコーディングが行われたのは1969年初頭。ドキュメンタリーフィルムとして準備されていた「ゲット・バック・セッション」の中で制作された曲がベースになっています。

 しかし、この計画は途中で頓挫(後に編集され映画『レット・イット・ビー』として公開)。当時、ビートルズはアップル社の財政問題やブライアン・エプスタインに代わるマネージャーの人事問題など面倒な問題をたくさん抱えていました。また、4人はそれぞれ家庭を持つようになり、音楽家として、一人の人間として、別々な方向に目を向け始めていました。それらの問題が複雑に重なって、結局「ゲット・バック・セッション」は形として結実するには至らなかったのです。作られた曲は一旦お蔵入りになりました。

 その後、ビートルズの4人は「もうこれで最後」と決めて、真のラストアルバムを作り始めます。それが69年の9月にリリースされた『アビィ・ロード』http://blog.livedoor.jp/raycat/archives/51314384.html。このアルバムのレコーディングをもって、ビートルズはグループとしての活動を終えました。

 しかし翌70年、音楽プロデューサーのフィル・スペクターが1年前にお蔵入りとなった「ゲット・バック・セッション」のテープをひっぱり出してきて、1枚のアルバムとしてまとめてリリースします。それが『レット・イット・ビー』。つまり、グループとしての歴史、あるいは4人の意識に寄り添って考えるならば、真のラストアルバムは『アビィ・ロード』になるのですが、発売順でいうと『レット・イット・ビー』の方が後に来るために、公式にはこのアルバムが“ラストアルバム”ということになっているわけです。

 非常にややこしいわけですが、さらにこのアルバムに「いわく」をつけているのが、当の4人、とりわけポールがこのアルバムのアレンジを全く気に入ってなかったという事実です。特に<ロング・アンド・ワインディング・ロード>のストリングスの激甘サウンドには激怒したと言われています。実際、それまでのサウンドのフィーリングからすると、確かにこの曲のアレンジには違和感を覚えます。かくして『レット・イット・ビー』は、ビートルズの歴史における「喉に刺さった小骨」のような存在として、長い間ファンの議論の的となってきたのです。

 そして、時代は下って2003年。デジタル技術が進んだことで、アルバム『レット・イット・ビー』から余分な音を取り除き、個々の楽曲が元々目指していたサウンドを蘇らせ、“本来の”『レット・イット・ビー』を作ろうということになりました。それが『レット・イット・ビー...ネイキッド』です。発表当時、全国紙に15段広告がバンバン出て、相当話題になりました。まあフィル・スペクターは相当ムカついたでしょうね、この企画(笑)。

 肝心の中身はというと、実はオリジナル版とそこまで大きな違い(何を持って「違う」のかという話になるとまた議論が必要ですが)はありません。トータルな印象における一番の違いは、オケの音量が増して、よりバンド感、「ロック」感が強くなったところでしょうか。元々軽量級だった選手が筋肉を厚くして重量級になった、みたいな感じです。要は、体重が変わっただけで人そのものが変わったわけではないのです(当たり前なんですけど、聞く前はわりとそのくらいのレベルの違いを期待しました)。

 もちろん、細かい加工が入っている痕跡はありますし、<レット・イット・ビー>や<アクロス・ザ・ユニヴァース>のように、オリジナルとは別テイク、あるいは別アレンジのボーカルを使用している曲なんかはかなり新鮮です。しかし、なんというのでしょう、これはこれで69年1月当初に4人がイメージしていたサウンドとは微妙に違うんじゃないか、という感覚が拭えません。別に根拠はないんですが、結局のところまだ「ネイキッド」ではない気がするんですね。フィル・スペクターでもない代わりに、ジョージ・マーティンでもない。また別の第三者の「意図」というものがどうしても見え隠れします。

 ではこの『ネイキッド』に全く価値はないのかというと、そうではありません。『ネイキッド』の絶対的に素晴らしい点、それは曲順です。オリジナルではラストに入っていた<ゲット・バック>が、『ネイキッド』では冒頭に配置されており、逆に<アクロス・ザ・ユニヴァース>や<アイ・ミー・マイン>など、オリジナルでは前半にあった曲が後半に置かれているなど、かなり大胆に入れ替わっています。構成も<ディグ・イット>と<マギー・メイ>が外されて、<ドント・レット・ミー・ダウン>(!)が収録されています。そして、ラストは<レット・イット・ビー>。

 <ゲット・バック>で始まり<レット・イット・ビー>で終わる。「かつていた場所へ戻ろう」という宣言から始まり「流れのまま、あるがままに」という無常観へと帰結する。この一連の流れには、ビートルズの歴史の終焉に秘められたドラマが詰まっています。この曲順によって掻き立てられるイメージこそ、『レット・イット・ビー』というアルバムが本来持つはずだった意味、すなわち「ネイキッド」なのではないかと思います。
映画 『コクリコ坂から』

 スタジオジブリの最新作『コクリコ坂から』を見てきました。細かいストーリーやトータルとしての感想は、いろんなところで書かれているので、今回は物語の本筋とは直接は関係のないところについて書きたいと思います。そして

 物語の舞台は、1963年の横浜です。当時の横浜は既に日本最大の港湾都市として発展していましたが、主人公の少女・海の暮らす街は、まだ都市化の波が押し寄せてはいない、横浜の外れの港街です。海べりには小さな波止場と商店街があって、船乗りとその家族が暮らす木造の家が立ち並んでいます。海に目を向けると、沖には大型のコンテナ船や積み荷を運ぶタグボートが、煙を吐き出しながら盛んに行き交っています。高度経済成長期真っ只中ですが、この街には何となくのどかさが残っています。

 決して多くのシーンが割かれているわけではありませんが、映画ではこの街の人々の暮らしがよく描かれています。船乗りや商店街の肉屋、魚屋、主婦や子供たち。別に裕福な街ではないので、経済成長の華やかさなどとは無縁の生活ぶりなのですが、それでも各自がその小さな世界の中で淡々と暮らしているのです。

 僕は実は、この街の風景に、涙が出てきて仕方がありませんでした。いろんな人が生きているという、ただそれだけのことに僕はものすごく震えます。

 主人公の海は、母親が家を空けています。そのため、海は毎日、家族の食事の用意や洗濯をしています。同級生より遥かに早起きだし、放課後も遅くまで学校に残ることはできません。けっこう苦労人なのですが、海自身は(少なくとも表面的には)そういう自分の生活を受け入れていて、淡々と同じような毎日を繰り返しているのです。

 唐突なようですが、僕は映画を見ながら「なんて世界は美しいんだろう」と考えていました。人生はいろいろうまくいかないことや、泣きたくなることや、後悔することがたくさんあるし、たまに「ああ、もっと違う人生があったのでは」というようなことを考えたりするけれど、そんなことは詮ないことだから、今いるこの場所で黙々と毎日を過ごしていくしかない。あの街で暮らしている登場人物たちは、そういう葛藤(というほど大げさなものではないにせよ)を乗り越えてきたんだと思うと、海や、街の人の、淡々とした生活のリズム感は、それ自体がものすごく美しいものに思えてきたのです。

 実は、昨年の『借りぐらしのアリエッティ』でも、一昨年の『崖の上のポニョ』でも、僕は同じことを感じて泣きました。1か月くらい前に、金曜ロードショーで放送された『魔女の宅急便』を見ても、やっぱり泣きました。スタジオジブリの作品は、この世界の一切を肯定しようという、無謀と言えるほどの意志があるから好きです。ジブリの作品はどれもが生命賛歌であり、世界賛歌だと僕は思います。子供の頃は、そういう感覚を直感的に受け取っていたのでしょう。そして大人になった今、世界を肯定することは、とんでもなくエネルギーが要ることを知りました。膨大なエネルギーを消費してもなお、世界を好きなろうとする気持ちは、多分毎日を淡々と笑顔で生きていくことと同義なのだと思います。
Amy Winehouse
『Back To Black』


 ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ブライアン・ジョーンズhttp://blog.livedoor.jp/raycat/archives/51270573.html、ジャニス・ジョプリンhttp://blog.livedoor.jp/raycat/archives/51174748.html、そしてカート・コバーン。彼らには2つの共通点があります。1つは、独特且つ強烈な音楽的個性の持ち主であること。そしてもう1つは、全員27歳で亡くなっていること。先週、このメンバーの中に、不幸にも新たに加わってしまったミュージシャンがいます。イギリスの女性歌手、エイミー・ワインハウスです。

 彼女の死をニュースで知った時、僕が真っ先に思ったのは(他の多くの音楽ファンもおそらくそうであったように)、上記の「27歳のジンクス」でした。もちろん、彼らが揃って27歳で亡くなったのはただの偶然に過ぎません。しかし、もし他の凡百のミュージシャンが亡くなっても、僕はこのジンクスのことを考えはしなかったでしょう。エイミー・ワインハウスだからこそ、ジミヘンやジャニスら、早世のパイオニアたちとの相似を考えたのです。

 エイミー・ワインハウスという歌手は、ごく控えめに言っても天才でした。特に、数々の音楽賞を獲得した2枚目のアルバム『バック・トゥ・ブラック』は、文句なしの名盤でした。

 シンガーとして、あるいはソングライターとして優れていることはもちろんですが、彼女の存在を周囲から際立たせていたのは、その音楽性です。

 50年代のジャズや60年代のソウルという、古いレコードに閉じ込められていた音楽を、21世紀の感覚で蘇らせた功績は計り知れません。そして、「リズム」というものを非常に重視していたことから、従来のブラックミュージックファンよりも、ブラックミュージックに疎かったロックファンに対して強い訴求力がありました。僕自身も、普段は黒人音楽をあまり聞かないのですが、エイミー・ワインハウスの音楽に対しては何の違和感もなく、むしろ普段聞いているロックと地続きのものとして受け入れていた気がします。

 当時、エイミー・ワインハウスはまだ20代の前半でした。にもかかわらず、その音楽には圧倒的な素養と、古典に対する深い愛がありました。しかしその一方で、彼女自身の生活はドラッグとアルコールにまみれ、破滅的な匂いに満ちていました。彼女の歌声には、暗く湿った(まさにジム・モリソンのような)粘っこさがあります。その退廃的で切羽詰った感じは、まさにパンクであり、音楽が産業化していく中で、徐々に失われてしまったものです。

 スキャンダラスで、堕落的で、刹那的。しかし、そこからしか生まれない感動があるという事実を、エイミー・ワインハウスというアーティストはまざまざと見せつけました。自分の人生を食いつぶすようにして生きていたからこそ、彼女の歌には強烈なフックがあったのだと思います。

 新作が出たら間違いなく初日に買いに行っていたであろうほど、すごく好きでした。残念です。
andymori『革命』

 日本の3ピースロックバンド、アンディモリ。この一風変わった名前のバンドは2007年、早稲田大学出身の小山田壮平(ボーカル/ギター)を中心に結成されました。まだ若いバンドですが、素晴らしい才能と高いオリジナリティを持っています。僕は、昨年リリースされた2枚目のアルバム『ファンファーレと熱狂』から聞き始めたのですが、すぐに大好きになりました。実はここのところ、日本の若手バンドの作品をあまり聞かなくなったのですが、アンディモリは数少ない例外です。そんな彼らが今月、3枚目のアルバム『革命』をリリースしました。

 このアルバムは表題曲<革命>で幕を開けます。歌詞の冒頭は「革命を起こすんだ」。このフレーズといい、そもそも『革命』というタイトルといい、全体的にかなり“尖った”雰囲気を醸しているわけですが、実際の中身はむしろ“日常”や“優しさ”といった、静かで淡いトーンを持っています。<ユートピア>という曲では、「バンドを組んだ。とてもいいバンドなんだ。みんなに聞いてほしいんだ」と歌い、また<Peace>という曲では、「父さん」「母さん」と家族に対する素直な思いを吐露しています。聞き終わった時には、なんとなく「実家に帰ろう」みたいな気持ちになる、身近な愛やノスタルジィに溢れたアルバムに仕上がっています。

 しかし、アンディモリのこれまでの流れからすると、この『革命』というアルバムの持つトーンは、実はかなり意外なものです。1枚目、2枚目と、彼らは常に“怒り”に満ちていました。小山田壮平の綴る歌詞はどれもユニークで非常に優れたセンスを持っているのですが、その世界観はどこか「世の中への違和感」を根っこに感じさせるものでした。愛を歌いつつも、その愛を信じているのは世界で自分一人しかいない、みたいな孤独感が漂っていました。

 サウンドにしてもそうです。アンディモリはフォークソングとパンクロックを掛け合わせた、いわば「フォークパンク」とでも呼ぶべき、変態的な(?)サウンドが特徴です。サウンドのそのアンバランスさにしても、根本には世界を突き放す、自ら孤独を選び取るようなデカダンス的な匂いがありました。

 そこへきて、この『革命』です。タイトルの響きこそ今までのキャラクターを踏襲しているものの、中身は前述のように大きく方向転換しています。前作『ファンファーレと熱狂』からの流れを期待していた僕は、当然ながら最初に『革命』を聞いた時には違和感を覚えました。しかし、その違和感は、聞きこむにしたがって消えていきました。

 一つは、単純にこの『革命』が、アルバムとして非常に優れていたからです。バラバラの曲と曲が、通して聞くとあるテーマの元に収れんされていき、やがて一つの大きな世界を描くという、アルバムならではの凝縮感があります。もっともこのことに関しては、アンディモリというバンドはこれまで一度も外したことがありません。また、小山田壮平のボーカルが今までにない強度を放つようになりました。彼独特の、熱量の失せたクールな声はそのままに、「歌」としての説得力が増しています。特にアルバムの後半などは、シンガーとしての小山田の独壇場です。

 もう一つには、このアルバムの持つ優しい空気が、今の僕の気持ちにとてもフィットしたことが挙げられます。つまり、「確かに今までのアンディモリとは違うけれど、これはこれでとても素晴らしい」。実は、震災以降にリリースされたアルバムとしては、僕にとってはこれが最初の作品になります。「震災」という文脈が、意識的にも無意識的にも、このアルバムのトーンをより身近なものに感じさせているのかもしれません。

 アルバムのラストに収録されている<投げKISSをあげるよ>という曲が入っています。タイトルは一昔前のアイドルの曲みたいですが、非常にいい曲です。「いろいろ大変なことがあるけど大丈夫」という応援ソングなのですが、普段ならこんなにもストレートな内容の歌は敬遠しがちなところを、なぜか今はいい。R.E.M.の<Everybody Hurts>を髣髴とさせます。震災ということなのか、単純にアルバムラストという収録位置が優れているのかわかりませんが、聞き終わると(つまりアルバムが終わると)不思議とカタルシスを感じます。
THE STROKES 『ANGLES』


 米ロックバンド・ストロークスが5年ぶりにリリースしたアルバム『ANGLES』。3枚目『FIRST IMPRESSIONS OF EARTH』をリリース以降、メンバーのソロ活動が活発になり、「バンドは解散しちゃうんじゃないか?」という不安を抱いたのですが、なんとか帰ってきてくれました。

 以前、1枚目『IS THIS IT』や2枚目『ROOM ON FIRE』を紹介したときにも書きましたが、僕はこのバンドのことが大好きで、曲も音も何もかもが不思議なくらいバチッとフィットします。

 しかし、そんな僕からしても、今回のアルバムは首をかしげざるをえませんでした。これまでのようなドライなガレージサウンドは鳴りを潜め、代わりに打ち込みやシンセが入ってきて、全体的に80年代ポップを髣髴とさせるアルバムに仕上がっているのです。ワム!やカルチャー・クラブ、シンディ・ローパーみたいな感じ。

 もちろん、ストロークスらしいリズムは健在だし、相変わらずデュアル・ギターの絡みはゾクゾクするものがあります。しかし、このアルバムにはかつてのような中毒性はありません。ファンのブログなどを見てみても、やはり同じ感想を抱いている人は多いようで、「これはダメ!」「5年もかけてコレか?」などなど、かなり厳しい意見が出てきています。

 思い起こせば、一昨年にリリースされた、ボーカルのジュリアン・カサブランカスのソロアルバムが、まさにこういう80年代ディスコ風の音に傾倒していました。バンドのリーダーはジュリアンですから、あのソロアルバムの流れからすると、今回の4枚目がこういう仕上がりになったのも、ある意味では自然の流れだったのかもしれません。でも、他のメンバーはどう思っているのでしょうか。メンバーの中で、最もストロークスの音に近いソロアルバムを作っていた、ギターのアルバート・ハモンド・Jrは、けっこう苦々しく思ってたりするんじゃないでしょうか。

 ストロークスはデビューして今年でもう10年になりますが、実はその半分はソロ活動期なんですね。特に今回のアルバムが出るまでは、前記のように5年も空いています。長く離れている間に失われた集団としての求心力が、まだ取り戻せずにいるのかもしれません。

 今回のアルバムで、ファンの振るい分けが進んでしまうんじゃないでしょうか。「裏切られた」と見限ってしまう人と、「でもやっぱり好き」とへこたれない(?)人。僕は後者です。それでもストロークスが好き!

 先週のNHK『THE SONGWRITERS』で、ゲストのトータス松本が「作品を作るエネルギーというのは、『自分のことがわからない』という感覚だ。わからないからこそ、知りたい。知るために僕は曲を作る」というようなことを言っていました。これは僕もよくわかる感覚だと思いました。

 作品はその時その時の、作者自身のドキュメンタリーです。つまり、常に変わり続けるし、当然ながらうまく自分自身とコミットできず失敗することもある。だとするならば、受け手(ファン)は作品の表面的な出来不出来に過敏にならず、「作者は今何を考えているのか」「何をしようとしているのか」について、受け手自身も想像力を働かせるべきだと思います。「働かせるべき」というか、そっちの方が間違いなく楽しい。作品をその場で消費するのではなく、作品を通じて「作者」という人間と付き合っていくことこそが、僕はアートの醍醐味だろうと思います。

 確かに今回のアルバムには驚きましたが、長い目で見たらこれがストロークスにとっての大きな転換点になるかもしれないし、本当に彼らのことが好きだからこそそこまで深刻なショックを受けてはいません。本にしおりを挟むように、次に紡がれる物語に期待したいと思います。・・・でもまた5年とか空いたらイヤだなあ。
The Kinks
『singles collection』


 「英国4大バンド」というのを知っていますか?誰が言い出したのかわかりませんが、ロック関係の本やネットの記事で何度も見かけたことがあるので、多分一般的なものなんだと思います。

 肝心の4バンドは何か。まずはビートルズ。まあそうでしょうね。次にローリング・ストーンズ。3つめがフー。フーあたりになるとロックファン以外には怪しくなってきます。ちなみにここまでの3バンドで「英国3大バンド」と括ることもあるそうです。

 そして最後にくるのが、キンクスです。順番からもわかるように、日本での知名度は残念ながら一番低い。しかし楽曲の素晴らしさ、オリジナリティ、後進に与えた影響は他の3バンドに引けを取りません。数々のトリビュートアルバムも作られていて、日本でもコレクターズやチバユウスケが参加したアルバムが作られています。僕の知り合いのイギリス人(僕と同年代)も「キンクスが一番好きだ」と言っていました。

 キンクスの魅力は、ジャリッと砂を噛んだような、ワイルドなサウンドです。彼らのデビュー曲は、リトル・リチャードの<Long Tall Sally>。ビートルズのカバーが有名ですが、ビートルズ版と聞き比べると、キンクスのキャラクターがよくわかります。ポール・マッカートニーのようにシャウトはせず、いかにも適当な感じで歌っています。テンポもビートルズに比べるとだいぶ遅い。まるで紙くずをゴミ箱に放り投げるような雑な感じがとてもクールです。

 ストーンズやフーも相当にワイルドですが、サウンドだけを見れば、僕はキンクスが一番不良っぽいと思います。ウソかホントかわからない(ロックにありがちな)「伝説」ですが、デビュー当時、キンクスはギターの音を歪ませるために、アンプをカミソリでズタズタに切り裂いたそうです。アンプを切り裂くと本当に音が歪むのか、真偽はさておき、確かに彼らのロックには、そういうジャリジャリっとした“苦さ”のようなものを感じます。

 しかし、彼らの不思議なところは、そういうデカダンス的なところがありながら、なぜか「品」があるところです。彼らはキャリアの中期以降、相当に凝ったコンセプチュアルなアルバムばかりを作るようになります。彼らは音楽的な探究心よりも、シュールな物語やペーソスをいかに音楽に盛り込むかという、知的な好奇心に満ちたバンドでした。ワイルドと書きましたが、彼らの場合はマッチョ的なそれではなく、「毒」「風刺」といったクールなワイルドさです。4大バンドの中で、僕ら日本人が持つ「イギリス人」というイメージに一番近いのがキンクスかもしれません。

 なので、アルバム単位で見るとかなりムラがあるので、キンクスを最初に聞くならベスト盤から入るのがオススメです。中期以降のコンセプトアルバムを最初に聞くと、かなり面食らうかもしれません。2008年、60年代のシングル曲を全部集めたベスト盤『singles collection』がリリースされました。ボーカルのレイ・デイヴィス自身がプロデュースをしています。キンクスの絶頂期の楽曲が20曲以上収録されているというかなりお得な一枚で、キンクスへの入り口としては最適な一枚です。
BEADY EYE 『Different Gear, Still Speeding』

 今年2月にリリースされたビーディ・アイのデビューアルバム。あのリアム・ギャラガーが率いる新バンドがついに(といってもだいぶ時間が経ってますが)動き出しました。

 メンバーはリアム(ボーカル)、ゲム・アーチャー(ギター)、アンディ・ベル(ギター)、クリス・シャーロック(ドラム)という元オアシスの4人。メンツだけを見れば、これはもうほとんど「オアシス」そのものです。バンド名を変えなくても良かったんじゃないかと思うくらい。しかし、そうはいかないことは、僕らファンもわかっていました。なぜなら、ここにノエルがいないからです。

 ノエルを欠きながら、残りのメンバーで「オアシス」としての新曲を書いて、ライブで<Whatever>や<Rock’n’roll Star>を歌う、なんてことはやはりどこか決定的に“違う”。ノエルは単にメインコンポーザーであったという以上に、オアシスというバンドの全ての要素の中心を担う「核」だったのです。

 だから、リアム達が新たなバンドを作るというニュースを聞いたとき、僕は「オアシスの延長線」を期待するのはやめようと思いました。しかし、同時に彼らがどんな音楽を作るのか、さっぱりイメージはできませんでした。オアシス時代にも、リアムやアンディ、ゲムが曲を書いていたことはあります。けれどそれは「オアシス」という枠の中でのこと。枠そのものが無くなった今、彼らがどういう音楽を作るのかは未知数でした。

 その答えは昨年の暮れにリリースされた、ビーディ・アイ名義での最初のシングル<Bring The Light>にすべて入っていました。3コードでひたすら押す、単純明快なロックンロール。ピアノのリフとコーラスが印象的で、60年代のようなレトロな香りが漂っています。オアシス時代からビートルズやザ・フーのカバーを散々やっていたし、インタビューなんかでも「オールド・ロックンロール愛」をしょっちゅう喋っていたので知ってはいたのですが、改めて思いました。彼ら(特にリアム)は、本当にピュアな「ロック少年」だったのですね。

 アルバム4曲目に<Beatles And Stones>という、“まんま”の曲があります。東日本大震災へのチャリティーソングとして発表したのが、オリジナル曲ではなくビートルズの<Across The Universe>のカバーだったことも象徴的です。キャリア的にはもうベテランの域なのに、未だにロックに憧れている彼らがなんとも愛しい。アルバムタイトルの「Still Speeding」はそういう意味なのかも知れません。

 アルバムを全編通して聞くと、とにかくリアムが頑張っているという印象。ボーカルの強度はオアシス時代よりもさらにレベルアップしています。責任感のようなものなのでしょうか、彼がとにかくバンドを引っ張っていこうとしているのが伝わってきます。彼が一人の自立した、成熟したミュージシャンだったことに、今さらながら驚きました。そう考えれば、彼がノエルの保護下から離れたのは必然だった気がしてきます。

 今回のデビューアルバムで、リアムが目指している方向みたいなものはわかりました。今後、この時代に逆行するようなオールド・ロックンロールを突き進んでいくのか、それともどこかでまた違う路線にシフトするのか、(一応)新人なだけにまだまだ読めません。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』
村上春樹
(文藝春秋)


 僕が初めて読んだ村上春樹の小説は、『ねじまき鳥クロニクル』でした。たしか10代の終わり頃だったと思います。『ねじまき鳥』を最初に読んだというと、大体驚かれます。なんていうか、ビートルズで言えばいきなり『ホワイト・アルバム』から入る、みたいなものですから。しかし、これは狙ったものでもなんでもなくて、単に「実家の本棚にあったから読んでみた」という、ごく気軽なものでした。

 多くの読者と同じように、僕ももちろん、衝撃を受けました。「面白い!」という意味での衝撃ではなく、「わからん!」という混乱からくる、文字通りの衝撃でした。頭に焼き付いたのは強烈な性描写の多さと(ま、10代ですから)、あの皮剥ぎ人ボリスの場面。しかし、肝心の物語はというと、不可解すぎてまるで理解できませんでした。

 その後、デビュー作の『風の歌を聴け』から順を追って読んでいったのですが、正直、初めのうちは「村上春樹」というブランドへの憧れで読んでいたところが少なからずありました。しかし、それでも結局、一年か二年の間に長編も短編もエッセイもほぼ全作品を読んでしまったのは、やはり何か心に引っかかるところがあったからだと思います。ちょっとカッコつけた言い方をすれば、彼の作品には、当時の僕にとって何かしら大事なことが書かれているように思えていたのです。そのような予感が、しつこく僕を彼の作品世界へと導いたのでした。

 しかし、量を読んでもなお、「わからん!」という感覚は残りました。いくつか作品を読むことで、彼の作品に共通するコードのようなものが身に付くのではと考えていたのですが、いくら読んでも、むしろ読めば読むほど、物語の闇は深さを増しました。

 そうするうちに、僕は次第に「この物語は頭で理解するものではないのでは」と考えるようになりました。彼の小説には、不可解な出来事や意味深な台詞がたびたび登場します。その一つひとつの意味を解釈し、「正解」を解こうとする必要はないんじゃないかと思ったのです。なぜなら、なにも物語の謎が全て解けなくても、読み終えた時には必ず身体の中に何らかの強烈なイメージが残り、相変わらず彼の作品へと向かわせるあの「予感」めいたものが消えなかったからです。だったらそれでいいじゃないか。僕にとって彼の作品の面白さは、「理解できる」「できない」という範疇の外にあることに気付いたのです。

 先日、村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』を読みました。この本の中で、世の中に「村上春樹解読本」的なものが数多く出版されている風潮に対し、村上春樹自身は「虚しい」と語っていました。物語を、何でもかんでも整合性や意味付けに落とし込んで理解しようとするのは、一種のゲームです。頭の体操としてはそれなりに面白いかもしれませんが、「物語そのものを楽しむ」という点からすると、なんとなくそれは不毛ではないかと言うのです。

 では、整合性でも意味付けでもなく、トータルな世界として物語を楽しむために重要なのは何なのか。村上春樹はそれを「想像力」と答えます。

 「僕の物語では確かに不可解で脈絡のないような出来事が起きる。現実的な、物理的な観点からすれば、それらに整合性はない。しかし、肉体を離れ、自分が一つの想像力のカタマリになった時、どんな不思議な出来事も、それが真実であるということが、皮膚感覚でわかるのではないか」と、そのようなことを語っています。とても感覚的な話ですが、このイメージ自体が、まるで彼の小説のようで面白いですね。

 僕にとって村上春樹の小説は、冒険小説に似ています。彼の作品にはジャングルも深い海の底も宇宙も出てきませんが、そこには必ず不思議な体験があり、背筋の凍るような恐怖があり、何かへと向かう強い意志があります。それらは目に見えるものとは限らないし、特定の言葉で表せるものでもありません。しかし、確かに感じることができる。ページをめくるたびに、物語そのものに自分自身が溶けていくような感覚を味わいます。それは他の小説にはない感覚です。いわゆる冒険小説が未知の「場所」を旅するものだとすれば、村上春樹の小説は未知の「感覚」を旅するものと言えるかもしれません。「村上春樹の小説を読む」ということ自体が、僕にとっては冒険なのです。