LITTLE FEAT 『DIXIE CHICKEN』

 震災から2ヶ月が経ちました。あれからたった2ヶ月しか経っていないことに驚かされます。もっと長い時間が経ったように感じます。

 一部の地域を除いて、首都圏の生活は以前のリズムをほとんど取り戻したといっていいでしょう。街の明るさが減ったくらいで、電車もダイヤ通りに走っているし、スーパーにもコンビニにも商品が戻ってきました。テレビのニュースでも、震災以外の情報が占める割合が増えてきています。

 しかし、2ヶ月前のあのショックというものは、依然として気持ちの底の方に、生の形のまま残っています。「以前とは違う」という感覚が、木の根のようにがっちりと食いついて離れません。自分の身体の外と内、どっちの「現実」が本当なのか、まだ混乱しています。

 ただ、今にして思うのは、結局僕がこの2ヶ月の間にやったことというのは、ただなす術もなく混乱していただけではないかという後ろめたさです。節電をして、募金をして、自分からニュースを掻き集めて関心を持ち続ける。それが僕にできた精一杯だったと思う一方で、例えばその気になればボランティアに行けたでしょうし、もっと直接的で具体的なアクションを起こせたのではないかとも思のです。節電も募金も、単なる言い訳なんじゃないかとさえ思うこともあります。

 2ヶ月前から続くこのショックというリアルと、避難生活や原発や風評被害というリアル。僕の身体の外と内の2つのリアルには、明らかに温度や質に差があるのです。

 そんななかで、先日ネットのニュースで精神科医の香山リカの文章を読みました。

 「今回のような災害が起きると、人は被災者に対して深く同情すると同時に、心のどこかで『自分でなくて良かった』と感じる。多くの人は、そのように感じることに対して罪悪感を持ってしまう。しかし、それは『分離』という、心が持つ重要な防衛機能である。被災者に対して被害を受けていない人間が無理に同化しようとすれば、そこから抑鬱状態に陥る可能性もある。そうならないためにも『自分でなくて良かった』と感じることは正しい反応だし、その感覚を否定する必要はない」と語っていました。僕はけっこうこの記事に救われました。

被災していない人にも「共感疲労」という苦しみがある(ダイヤモンド・オンライン)
http://diamond.jp/articles/-/11844

 「罪悪感」や「後ろめたさ」って、けっこう多くの人が感じてるんじゃないかと思います。でも、香山リカが言うように、それをあまりにシリアスに感じ過ぎてしまってはいけない。僕らにできる一番大事なことは、やっぱり毎日の生活をしっかり送ることだと思うので(3/17のエントリーhttp://blog.livedoor.jp/raycat/archives/51619289.html)、精神のバランスを崩してしまっては元も子もありません。それに、そもそも直接被害を受けていない人間が被災者に同化できるわけないし、またその必要もないと思います。

 自分の無力さに対して絶望しないことって、難しいですね。実際、1人の力ってホントに小さいですから。ただ僕が思うのは、自分の無力さを「自覚」することと、そのことに「絶望」してしまうことは、似ているように見えて大きな違いがあるんじゃないかということです。

 「自分は何もできない」という事実にふさぎ込んでしまうのは簡単ですが、それは被災者のことを考えているように見えて、自分にだけ目を向けているに過ぎません。直接的被災者ではない人間に今(そしてこれから)求められるのは、被災者に気持ちを(たとえ誤解や勘違いが含まれていても)寄り添わせることです。そして、自分の生活を淡々と、粛々と、営んでいくこと。自分の無力さを受け入れることは、そのための第一歩であり、必要な手順なんじゃないかと思います。

 ・・・どうも観念的な話ばかりになってしまいました。最後に思いっきり観念的で個人的なことなことを一つ。震災が起きてからしばらく音楽が聞けませんでした。かけてもなかなか耳に入ってきませんでした。しかし1ヶ月くらい経った頃でしょうか。テレビをつけていたらリトル・フィートの「ディキシー・チキン」が流れました(なんかのVTRのBGMとして使われてました)。その時、ようやく久しぶりに「音楽を聞く」という感覚を味わいました。

 リトル・フィートは70年代に活躍したアメリカのバンドです。ブルースやゴスペルやR&Bといった、アメリカ南部の音楽をルーツに持つ、かなり濃いめ・渋めの音を鳴らすバンドなのですが、その土着的な匂いがとても心地良かった。国も時代も違うのに、しかも耳を傾けているこちらの状況も決して普通とはいえない状態なのに、なぜか自然にフィットしてしまうのですから、やっぱり音楽って力がありますね。この曲をタイトルに冠したアルバム『ディキシー・チキン』(1973年)は、もう何年も聞いていなかったアルバムだったのですが、その以来何度も繰り返し聞いています。
Brian Wilson『SMILE』

 世の中には“天才”と呼ばれるミュージシャンが数多くいますが、「作曲」というテーマに的を絞って言えば、ポール・マッカートニーは間違いなくその筆頭に挙げられるでしょう。他にも優れたメロディメーカーは何人もいますが、ポールの才能というのはちょっと次元が違います。おそらく彼がいなかったら、その後のポップ・ロックシーンは今とはまったく違うものになっていたのではないでしょうか。メロディメイクのノウハウやコード展開のバリエーションは、ほとんど彼(ら)が発明したと言っても過言ではありません。そういう意味では、ポールと他のミュージシャンとはそもそも比べられないとさえ思います。

 しかし僕はあえてもう一人、ポールと同じくらい圧倒的な才能を持った作曲家を挙げたいと思います。それがブライアン・ウィルソンです。以前『ペット・サウンズ』(1966)http://blog.livedoor.jp/raycat/archives/51294993.htmlについて書いたときに少し紹介しました。ビーチボーイズの元リーダーにしてメイン・コンポーザー。残念ながら知名度はポールに負けますが、作曲家としての才能は引けを取りません。

 彼らのメロディに共通しているのは、“作られたものである”という痕跡が一切ないところです。初めから決まっていたかのように宿命的な音階、独創的でありながら作為を微塵も感じさせない和音の流れ。あまりに自然なので、初めて聴く曲でもずい分前から知っていたかのような錯覚に陥ります。「神様」という表現は安っぽいかもしれませんが、僕は彼らのメロディに、そのような人の手の及ばない何かを感じます。

 しかし、2人はタイプとしては全く異なります。ポールは感覚的で、頭に浮かんだメロディをポンッと形にして終わり、みたいな気分一発な(まさに天才肌な)ところがあります。一方ブライアンは、陶芸家が焼き上げた皿を何枚も割りながら究極の一枚を作り上げるように、徹底的に自分のイメージを追い求める頑固一徹な芸術家、といったところでしょうか。ビートルズのコーラスがいかにも適当な感じでバラけている(それが絶妙に合っているのがスゴイのですが)のに対し、ビーチボーイズのコーラスが一分の狂いもなくピチッと整理されているあたりが、2人のタイプの違いを如実に語っているように思えます。

 ビーチボーイズの音楽的なピークは、前述の『ペット・サウンズ』とシングル「グッド・バイブレーションズ」をリリースした1966年あたり、と言われています。特に『ペット・サウンズ』は、ビートルズを『サージェント・ペパーズ』制作へと駆り立てる大きな契機ともなった、ロック史における一つの記念碑的なアルバムです。ちなみにブライアンはこの時弱冠24歳。いかに早熟だったかがわかります。

 しかし、ポールの傍らにはジョンという強烈なライバルがいたのに対して、ブライアンは孤独でした。楽曲の制作を一手に引き受け、レコーディングではプロデューサー的な役割まで背負っていました。そのようなプレッシャーと、度重なるツアーの疲労から、ブライアンは『ペット・サウンズ』を作る段階で既にかなり深刻に精神を病んでいました。そのためビーチボーイズは、ブライアンとスタジオ・ミュージシャンによる「制作班」と、他のメンバーによる「ツアー班」とに分かれて活動していました。明るいパブリックイメージとは裏腹に、ビーチボーイズの実態はかなり異様なものだったのです。

 『ペット・サウンズ』をリリースしたブライアンは、すぐさま次のアルバムの制作に取りかかりました。実際に何曲かはレコーディングも行われました。タイトルも決まっていました。――『スマイル』。それが新作のタイトルでした。しかし、結局この『スマイル』がリリースされることはありませんでした。

 原因はいくつかあるようですが、最大の理由はブライアンの精神状態が極度に悪化したからでした。彼は重度のドラッグ中毒に冒され、肉体は160キロもの巨体に膨れ上がりました。彼はスタジオワークからも離れ、廃人同様の生活に迷い込んでしまうのです。

 しかし一方で、その“作られるはずだったアルバム”『スマイル』は世間の注目を集めました。『ペット・サウンズ』の評価が上がるにつれて、リスナーは「ビーチボーイズ(ブライアン)は次に一体どんなアルバムを作ろうとしていたのか」と想像を膨らませました。また、次作に収録予定だった曲の一部が、シングルや海賊盤で出回り、しかもそれらのレベルがとても高かったことから、「もし『スマイル』が予定通り出来上がっていたら、一体どれほどの完成度だったのだろう」と、否が応でもファンの期待を煽りました。

 とはいえ、ブライアンは依然として出口の見えない療養生活を送っており、バンドもメンバーの死などがあって、70年代の終わりには実質的には解散状態になりました。こうして『スマイル』は、「ロック史上もっとも有名な未発表アルバム」と呼ばれ、伝説の一部になったのでした。

 ・・・ところが、なんと2004年、幻だったはずのアルバム『スマイル』は、現実のものとなるのです。ブライアンは懸命にリハビリをし、ビーチボーイズを離れ、80年代から細々と音楽活動を再開していました。そして、当初の予定から37年(!)遅れて、彼は自らの人生に深く刺さった楔である『スマイル』を完成させたのです。

 このことは僕に2つのことを考えさせました。一つは、伝説は「伝説」であるから良い、ということ。幻であるからこそ、僕らはその空白を想像力で埋めることができます。伝説が「伝説」である限り、イメージはどこまでも膨らませることができます。リスナーとしての勝手な立場から言えば、伝説が現実になった瞬間に、その際限のない空想は終わってしまうのです。そして、さらに言ってしまえば、伝説や幻や「実現不可能」といったものごとが、いざ本当に目の前に現れると、往々にしてガッカリしてしまうものです。再結成したバンドのほとんどが、当時の熱さを失ってしまっているように。

 この『スマイル』を最初に聴いたときも、軽い失望感があったのは事実です。個々の楽曲は素晴らしいです。ブライアンの中に眠る泉は、60歳を超えてもなお枯れてはいないと思いました。しかし、やはり“僕のイメージしていた『スマイル』”には及ばないのです。現実の『スマイル』は、僕が想像していたよりもやや冗長気味で、メロディの美しさは相変わらずな反面、トータルで見るとどこかダイナミズムに欠けていました。もっとも『ペット・サウンズ』を最初に聴いたときも「なんだこれは?」と思ったので、今後『スマイル』に対する印象も変化する可能性はありますが。いずれにせよ、『スマイル』の完成は、ある種の「夢の終わり」ではあったのです。

 僕が考えたもう一つのこととは、何といってもブライアンが『スマイル』を完成させたという事実そのものに対する素直な感動です。ファンが期待していること。そして『スマイル』を作り上げることで、逆にその期待を裏切る結果になるかもしれないこと。すべてブライアンはわかっていたと思います。それでも彼は挑戦し、作った。そのこと自体がとても感動的です。

 下に、ライブの映像を載せてありますが、それを見てもわかるように、彼はずっとキーボードの前に座ったままです。他のライブでも、彼が立って歌うことはまずありません。村上春樹も(彼は根っからのビーチボーイズ・マニアです)以前どこかで書いていましたが、おそらくブライアンの肉体にはかつてのダメージが残っていて、決して自由には動かないのではないかと思います。また、ボーカルにしても、彼のトレードマークであったハイトーンがもう出ないんですね。高音はすぐにかすれてしまう。張りもありません。

 そういった“みっともない姿”を晒すことがわかっていながらも、なお自分自身と向き合い、因縁深い『スマイル』と決着をつけようとするブライアンの姿には、音楽的なレベルを超えたところで、心を揺さぶられます。彼はずっと、戦い続けているのです。
 先日、『英国王のスピーチ』を見てきました。イギリス王室史上「もっとも内気な国王」と呼ばれた、ジョージ6世を描いた映画です。今年の3月に行われた第83回アカデミー賞では作品賞をはじめ計4部門を受賞しました。話題作なので、見た方も多いと思います。僕もようやく見ることができました。

 ジョージ6世は、現在のイギリス女王・エリザベス2世の父にあたります(先日結婚したウィリアム王子からすると曽祖父にあたる人物ですね)。彼は幼い頃から吃音症に悩まされ、そのせいで人前に出ることが極端に苦手でした。国王になる気などさらさらなく、社交的な性格の兄・エドワード8世が父の跡を継いで国王になると、自分は裏方役として兄を補佐したいと望んでいました。

 しかし、いざ国王の座に就いたエドワード8世は、年上女性との不倫が原因で(実話!)、わずか1年足らずで退位。結局、弟のジョージ6世が、とばっちり的な形で王位を継ぐことになったのです。国王の座に就いたのは、1936年。ヨーロッパでは、ナチスドイツの脅威が吹き荒れようとしていた時代です。イギリスにとって、まさに国難と呼ぶべき時代に王座に就いたのです。

 破竹の勢いで進撃するドイツは、ついにイギリスとも戦端を開きます。国民は激しく動揺します。ジョージ6世は国王として、不安に揺れる国民に向けたスピーチを送ろうと決意するのです・・・。

 期待通りの素晴らしい映画でした。脚本も素晴らしいし、映像も美しい。とりわけ、ジョージ6世とスピーチスピーチ矯正の専門家・ライオネルとの会話シーンは、いずれも緊張感とユーモアとが混沌としていて、圧倒的な完成度を感じました。ジョージ6世を演じたコリン・ファースはこの映画でアカデミー賞の主演男優賞を受賞しましたが、ライオネルを演じたジェフリー・ラッシュや、ジョージ6世の妻・エリザベスを演じたヘレナ・ボナム=カーターなど、脇を支える俳優陣の演技も素晴らしかったですね。

 しかし、僕がもっともグッときたのは、物語を通じて描かれる、ジョージ6世の葛藤です。彼は、自分が国王に向いていないことを痛感しています。ほんの些細なスピーチですら言葉に詰まり、逆に聴衆から心配されてしまう始末です。「国王とはイギリスのスポークスマンだ」と父・ジョージ5世は言いますが、そんな役目を果たせるわけがないことは、自分が一番よく知っています。しかし、一方で彼はとても生真面目で、責任感が誰よりも強い。その性格が結局、国王を継がせることになるのです。

 前回、映画『SOMEWHERE』について書いた時に、「ここではないどこかへ」という話をしました。『SOMEWHERE』が、ここではない“どこか”へ向かう物語だったのに対し、『英国王のスピーチ』は“どこか”を心に描きつつも、“ここ”で生きていく決意を語った物語だったと言えます。

 ジョージ6世は何度も自分を変えようと努力します。吃音症を治そうと何人もの医者の診察を受け、見るからに怪しい治療法にまで手を出します。しかし、一向に成果は上がりません。さらに、決して望んでなどいなかった国王という重責を背負うことになります。彼は、心に描いていた「ありたい自分」からは遠くかけ離れた己の運命というものを受け入れるのです。この点、『SOMEWHERE』のジョニーとはとても対照的です(もちろん、ジョージ6世には現実的に“どこか”を選ぶ自由はなかったでしょう。なんといっても彼は「国王」ですから)。

 結局、ジョージ6世は最後のスピーチの場面に至っても、吃音症を治すことはできません。ではどうやったかと言うと、あの手この手で“ごまかす”んですね。なんとか“ちゃんと喋ってる風”を取り繕って、乗り切るのです。僕はここがとても面白いと思いました。堂々と淀みなく演説できるという、本来の「あるべき国王像」からすれば、それは欺瞞なのかもしれません。でも、それが彼の運命の受け入れ方であり、彼にしかできない国王としての生き方なのです。その必死さはなんとも悲哀があり、同時に滑稽でもあり、しかしなんだかムズムズと「人間っていいなあ!」と感じるのです。
 久しぶりに震災以外の話題を・・・。

 先日、映画『SOMEWHERE』を見てきました。あの『地獄の黙示録』で有名なフランシス・フォード・コッポラ監督の娘、ソフィア・コッポラが監督を務めた映画です。

 華やかな生活を送るハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ(スティーブン・ドーフ)と、別れた妻の元で暮らしている11歳の娘・クレオとの数日間の同居生活を描いた物語。これといった事件は何も起こらず、大きな見せ場も練られた伏線も一切無い、ただ淡々と過ぎていく日常を追っていく、とても静かな映画です。

 台詞も極端に限られています。特に冒頭20分くらいはほとんど台詞らしい台詞はありません。そのかわり、登場人物の瞳の揺れや、ため息や、口元のわずかな動きといった、仕草の一つひとつが濃密で、「映画を見ている」というよりは、彼らに寄り添いながらその生活を覗いているような感覚を抱きます。

 主人公ジョニーは、フェラーリを乗り回し、毎晩のように酒と女に溺れる派手な生活を送っています。しかし、表面的な華やかさとは裏腹に、心の中では空しさを感じ続けています。

 彼は長い間ずっとホテル暮らしを続けているのですが、時折り部屋で一人になると、何もすることがなくなってしまいます。ぼんやりと煙草を吸うことくらいしか、退屈さを紛らわす術がありません(しつこいようですが、これらは全部ジョニーの仕草を通してしか窺い知れません)。しかし、台詞が少ないからこそ、彼の感じている退屈さや空しさが伝わってきます。

 もっともその虚無感は、決して切迫したものではないのです。酒があれば簡単に洗い流せるし、目を背けようと思えば誰かしら女性を呼べば済んでしまう。しかし、その“差し迫っていない感じ”が、逆に厄介です。

 そんな彼の元へ、母(元妻)が家を空ける間だけ、娘のクレオがやってきます。これまでにもクレオはジョニーをたびたび訪れているので、2人で時間を過ごすことは珍しいことではありません。一緒にゲームで遊んだり、プールで泳いだり、料理を作ったりと、他愛のない父娘の生活が進んでいきます。静かに、淡々と。

 やがて、クレオはサマーキャンプに行くため、ジョニーの元を去ります。再び一人の暮らしに戻ったジョニー。しかし、何かが今までと違うことに気付きます。アルコールも裸の女も、もはや以前のようには彼を虚無から救ってはくれません。クレオの不在によって、ジョニーは初めて自分自身の空虚さに向き合わざるをえなくなるのです。

 彼は住み慣れたホテルをチェックアウトすることを決めます。車を飛ばして都会を離れ、そして、何もない田舎道の真ん中で不意に車を止め、今度は自分の足で歩き始めます。彼は、今までいた場所から、出ていこうとするのです。
 
 「ここではないどこかへ」。これは近代以来、物語が絶えず挑み続けてきたテーマです。しかしこの映画では、その「どこか」がどこ(何)なのかを描こうとはしません。クレオの元へ行くのか、俳優を廃業することを決めたのか、ただの衝動的な行動なのか、この映画はやはり何も説明してはくれないのです。何も語らず、何も指し示さず、すべては淡い余白のなかへ。

 しかし、本来「どこか」とは、淡い余白のような存在です。行き先も、道順も、そんな場所が本当にあるのかさえもわからない。今いる場所よりもさらに不幸になる可能性だってある。そもそも「ここではないどこかへ」行くということは、一種の脱出です。脱出には、行き先のアテや、成功する保証はありません。何一つわからない。この映画の特徴である淡い余白は、実は“somewhere”(どこか)そのものだったのです。

 それよりも、脱出において重要なのは、とにかく何でもいいから外に出る!ということです。つまり、意志です。ジョニーがどれほどの強い意志を持っているかは(やっぱり)わかりません。しかし、彼はあの乗り慣れたフェラーリを捨てていくのです。それが象徴的です。

 キーを挿しっぱなしにしたフェラーリが、耳ざわりな警告音を、ジョニーの背中に向かって鳴らし続けます。それでも彼は歩みを止めません。ギュッギュッと、地面を踏みしめるようにして歩くジョニー。その姿は何かにひどく焦っているように見えます。彼を突き動かしているのは何なのだろう。幻想かもしれない“somewhere”に向かって、それでも彼を前に進ませる意志とは、一体何なのだろう。言葉にできそうで、できません。淡い余白でしか表現できない大切なものが、世界にはきっとあるのです。
『キュレーションの時代』 佐々木俊尚 (ちくま新書)

 ITジャーナリストの佐々木俊尚が昨年書いた本『キュレーションの時代』。目からウロコの良著です。

 佐々木俊尚は以前から「情報のキュレーター」を標榜し活動している。「キュレーター」とは、元は博物館や美術館などで、特定のテーマに沿って展示物を選び、どう見せるかを考える職業のこと。たとえば、時代も画法もまったく異なる絵を同じ部屋に並べると、単体では見えてこなかった新たな世界、新たな文脈が見えてくることがある。埋もれていた無名の作品を掘り出してきたり、有名な作品でも全く新しい光を当てたりして、人々に提供するのがキュレーターという仕事の役割だ。

 このキュレーターが、「情報」というものに対しても有効ではないかと佐々木は言う。インターネットの普及で、情報はまるで海のように巨大な渦を巻いている。そこから必要な情報を拾い上げるのは大変だ。中には、人目に触れず埋もれていった貴重な情報もあるかもしれない。

 そこで、見識を持つ者が情報の海とユーザーの間に入り、独自の切り口で有益な情報をユーザーに紹介する役割を果たすと面白いのではないかというのである。実際、彼はTwitter上で、気になるニュースやブログの記事などを毎朝20~30前後のページで紹介している(@sasakitoshinao)。

 本書は情報と個人との関係が、この10年間ほどでどうシフトチェンジしたかを解説している。これまでネットのさまざまなサービスの「機能」を説明した本は数多くあったが、それらが僕らの生活にどう影響し、どう変えていくのか、その可能性まで含めて解説してくれた本は少ない。本書は間違いなくその一冊。情報社会の変化のスピードはすさまじく、早すぎるためにフォローできなくなった途端にスネて諦めたくもなるのだが、本書を読むとそういった変化に対して肯定的になれる。

 僕はこれまで、新聞とテレビのニュースを主な情報源としてきた。だが震災を機に、ネットを利用する割合が飛躍的に増えた。

 計画停電開始当初、交通機関が混乱し情報が錯綜するなか、「池袋駅の混雑状況」「丸ノ内線の遅れ具合」といったピンポイントな情報を得るのに役立ったGoogleのリアルタイム検索(Twitter)や、「放射線と放射能の違い」「原子炉の構造」といった初歩的な情報を発信し、根本的な疑問や盲点だった知識を埋めてくれたニュースサイトの記事や個人のブログなど、情報の質の深さ、バラエティの広さはマスメディアに比べて圧倒的である。

 ネットの情報は確かに玉石混交で、デマも多い(僕も今回一度引っかかってしまった)。また、集積される情報は膨大で、そのなかから必要な情報を見つけ出すのは大変だ。そのせいで、僕はこれまでネットを情報ツールとして利用することに少なからず抵抗感があったのだが、今回その認識を改めざるをえなかった。

 ネット、特にTwitterなどのソーシャルメディアが従来のマスメディアと異なっているところは、その情報の基盤が(匿名であれ記名であれ)「個人」に依っている点だろう。交通機関情報で言うなら、マスメディアがせいぜい路線単位の概略的な情報しか発信できないのに対して、ソーシャルメディアは実際に今現場にいるユーザーからの書き込みを閲覧できるため、「丸ノ内線池袋駅ホーム、入場規制中。30分並んでもまだ入れない」なんていうピンポイントかつダイレクトな情報が得られるのである。

 僕が(今更ながら)感動したのは、それだけ多くのユーザーがいたるところにいて、盛んにツイートを発信している、ということだ。例えば上記のツイートは、池袋駅や丸ノ内線を利用しない人にとってはまるで意味のない「独り言」にすぎない。だが、利用する人にとっては価値のある「情報」になる。圧倒的多数の人が読み飛ばすとしても、ユーザーがせっせとツイートを放り込むことで、見ず知らずの別のユーザーに、ある瞬間それが有益な「情報」として届く可能性を生んでいる。個々のユーザーの参画意識、それは他ユーザーに対する期待や信頼だと思うのだが、そうした意識が共有されているからこそ、ソーシャルメディアは単なる会員制サービスではなく、情報インフラとして威力を発揮しているのだろう。僕なんかは何年も前にmixiをかじった程度の(それも友人との連絡手段止まりの)認識だったので、その点にとてもショックを受けた。

 もう一つ、僕がネットを利用していて感動(というと言いすぎなのだが)したのが、情報の多様性である。僕はGoogleリーダーを利用して毎日100~200の記事をチェックするようにしているのだが、実にいろいろな視点から書かれた記事を目にする。原発の話題一つをとっても、科学や医療、経済や教育など、いろいろな切り口で書かれた記事がある。そうしたバラエティの広さは、たとえば特定の新聞、特定のニュース番組だけを追っているだけでは得られない。

 また、ネットの情報における多様性には、「立場」あるいは「視点」の多様性、という側面もある。前述のように、ネットの情報の多くは個人が発信したものだ。「日経ビジネスオンライン」や「ダイヤモンド・オンライン」などのニュースサイトであっても、掲載される記事のほとんどが署名記事である。

 個人と紐付いた情報は、当然その執筆者の個性や立場を反映する。極端な例だが、原発に反対する人は放射線の危険や安全管理リスクを指摘する記事を書くだろうし、支持する立場の人は原発の発電効率の良さや代替エネルギーの可能性の薄さを強調するだろう。ネットの情報のバイアスのかかり方は、例えば朝日新聞と読売新聞の違い、なんていうレベルではない。

 僕がいいなと思うのは、多様な視点を体験することで、ある情報やある立場について、自然とそれを相対化する力が養われていくところである。ネットはデマを広げる危険性もあるが、最低限の注意さえ払っていれば、逆にデマに惑わされない知性が身に付くのではないかとも思う。

 もちろん、僕には僕の視点があるだろうし、ピックアップする情報についても何らかのバイアスがかかっているだろう。そもそも、「バイアスがゼロの状態」や「完全中立公平な情報」なんてものがあるのかと思ったりもする。だが、少なくともそういったことを自覚できるかできないかは、大きな違いなんじゃないだろうか。

 というわけで僕もTwitter始めてみました。頑張ってツイートしています。良かったらフォローしてください。→@sassybestcat
僕の肩に乗るもの
新たな「日常」に向けて


 正岡子規の残した小説(というよりも書きなぐったメモという方が近いのだが)に『四百年後の東京』という作品がある。タイトル通り、未来の東京を描いたSF小説(?)なのだが、例えば400年後の御茶ノ水は日本一の歓楽街になっていて(なぜ御茶ノ水なのかはよくわからない)、地上よりもむしろアリの巣のように発達した地下街に飲み屋や娯楽施設が並んでいると書かれている。また、東京湾には大小何百もの船が停泊していて、中には青物船や洗濯船、蒸気風呂船、外科医船など船員たちを相手にした“生活サービス船”もあり、それらが一つの街を作っている、などとも書かれている。

 なんてことはない、子規の妄想をただ書きなぐったメモのような小品だ。だが、なんだか面白くて惹かれる。子規というと「俳句」だが、僕は彼の自由闊達な散文の方が好きだ。そして、彼の文章には深い日本への愛が感じられる。

 『四百年後の東京』にしても、今読めばそのイメージは決して目新しいものではないし、現実の東京は400年どころかわずか100年でこの小説の世界よりも発展した。だが、この小説には、日本土着の、なんともいえない、湿気混じりの猥雑な空気感がある。そして猥雑なくせにどこか品があるのだ。おそらくその品は、彼の綴る日本語のリズムの美しさが大いに関係していると僕は思っている。短文詩研究の第一人者だからなのか、散文の律動の美しさについても、品と色気があるのだ。

 1ヶ月ぶりにブログを書く。

 この1ヶ月の間、何度となく思い出す言葉がある。
「国が滅ぶということは、その国の文化が滅ぶということだ。連綿と築かれてきた歴史が無に帰するということだ。それは絶対にあってはならないことなんだ」
 これは正岡子規の言葉である。と言っても、実際に本人が残した言葉ではない。一昨年から放送を続けているNHKドラマ『坂の上の雲』の台詞だ。日露開戦前夜、出征する秋山真之に向けて、病床の子規がこの台詞を口にする。

 正岡子規は俳句や和歌などの日本古来の定型詩に、自然主義的な方法論を持ち込んで、「描写」という新たなスタイルを作り上げた人物である。だが、彼自身が生涯のテーマとして掲げていたのは、単に句法を練り上げることではなく、日本の短文詩を研究することで、日本の文化そのものを捉え直すことにあった。日本が急速に近代化を遂げていく中で、産業や軍事力だけでなく、自国の文化も世界照準で考えていかなくてはならないと考えたところに、近代人・正岡子規の凄さがある。

 その子規が病床で、帝国ロシアとの国の存亡をかけた戦いに向かう真之に、ほとんど哀願するような勢いで言うのが上記の台詞である。子規を演じる香川照之の壮絶な演技と相まって、この台詞は脳裏に刻みつけられた。そしてこれは、子規と同じく「日本とは何か」をテーマに作品を書き続けた原作者・司馬遼太郎自身の思いでもあるように感じられた。この言葉が3月11日以来、何度となく頭に浮かぶ。

 今まで僕は、日本のことを、どちらかと言えば嫌いな方だったと思う。細かく言えば「嫌い」とハッキリ書くほどでもなく、「興味がない」「どうなってもいい」みたいな、取り立ててこれといった感情を抱くことすらない、突き放した感覚を持っていた。

 僕らの世代はバブルが弾けた後に思春期を迎え、日本全体に徐々に停滞感が漂ってきたのを肌に感じながら育った。「いい大学に入っていい会社に入って…」という従来のスタンダードは崩壊したものの、それに代わる新たな幸福のスタンダードは誰も見出せてはいなくて、将来について悩む僕らに対し、学校やマスコミは「やりたいことをやるのが一番」というあまりに無責任な言葉で突き放した。

 僕が10代の頃にブームになった松本大洋の『ピンポン』に、「人生は死ぬまでの暇潰し」という台詞が出てくる。日本がなんとなく年老いていく空気に侵されていく一方で、携帯やコンビニやインターネットなんかが急速に普及するという享楽的な雰囲気のなか、その『ピンポン』の台詞は強烈なリアリティがあった。日本という国に興味など、ましてや誇りなど、持ちようがなかったのだ。

 そのような鈍い退廃感の中で成人し、仕事をするようになり、そして、3月11日が来た。

 電車が止まり、物が無くなった。さらには放射能被爆するかもしれないという、予想だにしなかった恐怖に晒された。テレビやネットでは、次々と悲惨なニュースが流れた。自分の生まれた国が瀕死の重傷を負った姿を目にしながら、僕は初めて、自分が日本人であるという自覚を持った。

 それまでは、「日本」という国と「僕」という個人との間には、大きな隔たりがあった。もちろん、日本の社会保障制度なんかが自分の将来設計に少なからず影響を与える事実は認識していたし、選挙だって一応は毎回投票に足を運んできた。でも、例えば何らかの事情で急に外国籍を取ることになっても、僕は多分躊躇しなかったと思う。「日本」と「僕」との間に精神的なつながりはまるでなかった。

 だが、今回の震災で、日本という国の、その責任の一端を、僕も背負っているのだということを、俄かに知らされた。それまでは観客の一人だと思いこんでいたのに、いきなりスポットライトを浴びせられて、登場人物の一人になってしまったような気分だ。

 日本への情。それは僕の場合、日本の歴史や文化への愛情である。もちろん、今回の震災が、日露戦争のような国家そのものが滅びるような危機に晒されるわけでは(多分)ない。そういう意味では、上記の正岡子規の言葉がリフレインしている僕は、単なる誇大妄想の自意識過剰なのかもしれない。

 ただ、僕は初めて、自分が歴史の外にいるわけではなく、歴史の一部なのだと感じている。正岡子規や先人たちが受け継いできたものは、教科書や小説を通じて享受するものではなく、実際に僕の肩の上にも乗っているのだということを、ぼんやりと、だが確かに感じる。そうやって僕は、なんとなくではあるけれど、自分が日本人であることを感じているのだ。

 長かったような、あっという間だったような、時間感覚のおかしい1ヶ月だった。首都圏では電車のダイヤはほぼ元に戻り、コンビニの店頭にも徐々に品物が並び始めた。しかしその一方で、被災地では未だに行方がわからない人が1万人を超す。福島第一原発の事故も出口が見えない状態が続いている。放射線の検出量は基準値の周辺を行ったり来たりしている。

 そして、もはやテレビやネットを見なくても、日本が今危機的な状況にあることを身体が覚えてしまっている。東京に住む僕の生活は、一見震災前と変わらない。だが、身体の奥深くに根を張った危機感が、絶え間なく緊張を強いてくる。

 いつか原発の事故処理が終息し、放射能の脅威が去り、電力が復旧したとしても、決して“元通り”になどならないだろう。異常と正常の両極に引っ張られ、奇妙に捻じ曲げられた今のこの状態が、僕の新たな「日常」なのだという気がする。
僕は僕のいる場所で
あなたはあなたのいる場所で


 まるで映画を見ているとしか思えないような毎日が続いている。被災地の状況や刻々と増える犠牲者の数、計画停電で混乱を極める都市生活に、未だ好転しない原発の問題。映画であってほしいけど、これは紛れもなく現実で、その証拠に毎日胸が痛む。

 ある日突然、それまでの生活が奪われた人たちの無念というのは、一体どれほどのものかと思う。亡くなった方たちの冥福を祈ると同時に、被災者の方たち、そして福島第一原発で必死の作業を続けている方たちに対し、力いっぱいのエールを送りたい。

 地震が起きた当日、僕は東京駅の近くにいた。あの日、おそらく何百万人にも上ったであろう“帰宅難民”に僕もなり、4時間かけて板橋区の自宅まで歩いて帰ることになった。そして靴擦れだらけになって帰ってみると、部屋の中は本棚やCDが全てひっくり返っており、元通りに直すのに翌日いっぱいまでかかった。

 もちろん、東北の方たちに比べれば取るに足らない被害だ。だが、生まれてこの方大きな災害に見舞われたことのなかった僕にとっては、強烈な体験だった。

 阪神大震災の時には、子供だったのと、距離的にも離れていたことで、心の中ではどこか自分とは関係のないことだと思っていた。だが、今回は違う。自分も被災したという意識もあり、「一体自分には何ができるのか」をずっと考えている。

 まず、僕は徹底的に節電に協力しようと思う。今この文章も携帯を使って書いている。エアコンが使えなかろうが、電車が止まって歩いて帰ることになろうが、それが最終的に被災者の支援と日本の復興につながるのであれば、いくらでも協力する。そして積極的な募金である。

 今、具体的にできることは限られている。そして個人が一人で発揮できる力というのは、悲しいほどに小さい。けれど、今は自分の頑張りが、やがては大きな力の一部になることを信じて、できることをやるしかないと思う。

 しかし、時間が経って、被害の全容が明らかになり、原発も安全が確認され、電気の供給が元に戻ったとしても、被災地の復興はもっとずっと長くかかるだろう。もちろん、日本全体の回復も。今は目に見えてピンチだから関心も高いし支援への動きも活発だが、1年後、2年後、もっと先まで今回の震災を記憶し、関心を持ち続けることも、僕らに課せられた使命だと思う。

 そう考えると、何より僕らが被災者とその復興のためにやらなければならないのは、きちんと生きることだと思う。

 ちゃんと食べてちゃんと寝て、満員電車に揺られて一生懸命働いて、家庭を築いて子供を産んで育てて。そういう風に毎日をただひたすら生きていくことが、とても大事なことだと思う。

 政治や経済において、これからどんどん悪いニュースが流れることになるだろう。確かに今回のダメージから被災地や日本全体が回復していく中で、政治や経済が果たす役割は小さくない。でも、日本の復興の本当の主役は僕らのはずである。僕たちが、それぞれの場所で、ピンチをはねのけ、ささやかでもいいから幸せを掴もうとすること。今いる場所がたとえ自分が望んだ場所じゃなくても、一人ひとりが今日を一生懸命生きることでしか日本の復興は遂げられないし、それこそが亡くなった方や今も避難所で暮らしている方たちに対する誠意だと、自戒も込めて、僕は思う。

 今日、NYタイムズに載った村上龍の文章を読んだ。僕はとても感動した。英文だけれどそんなに難しくないので、良かったら読んでみてください。

http://www.nytimes.com/2011/03/17/opinion/17Murakami.html?_r=2
便利なのは嬉しい
でも、便利すぎると空しい


 中東や北アフリカで起きている民主化運動に、facebookを初めとするSNSが大きな役割を果たしたというニュースを聞いて、最初は「すごいなあ」と思ったのだけれど、しかしよく考えてみると、何がどう「すごい」のか、実はイマイチよくわかっていないことに気付いた。mixiもtwitterもfacebookもmyspaceも、アカウントだけは取得したものの、一度も使わずに放置したまま。どんな機能があるのかすら把握していない僕には、「インターネットが革命を起こす時代になった」と言われても、なかなかその衝撃度合を具体的にイメージすることができない。なんとなく置いてけぼり感を抱く一方で、しかしきっと僕のような人は案外多いんじゃないかとも思う。

 僕が初めて携帯電話を持ったのは高校3年生のときだった。正確に言うと携帯ではなくPHSで(当時携帯の料金は高額だったのだ)、番号もまだ9ケタだった時代だ。ディスプレイはモノクロで、eメールなんて機能も当然無く、かろうじて同機種同士限定でカタカナ15文字程度の“メール的なもの”がやりとりできる、という代物だった。あー、なんか「昔話」みたいでイヤだなあ。

 それでも当時の僕らにとってその“ピッチ”の存在は、それまでの生活を一変させる、まさに革命的なツールだった。それまでは友達に連絡一つするにしても、まず相手の自宅に電話をかけ、受話器に出たご家族に「夜分遅くに・・・」などと詫びつつ、同時に自分の親の目も気にしながら、まるで役所の手続きのように一つひとつ段取りを踏まなければ相手と会話ができなかったのが、ピッチの登場で24時間いつでも自由に連絡が取れるようになったのである。

 僕らはいくつものくだらない言葉を、悩み相談を、女の子との約束を、電波に乗せまくった。慣れない手つきでカナ文字をせっせと打ちながら、あの頃、僕は確かに“誰かとつながっている感じ”というものを感じていたと思う。現在ではマナーモードにしっ放しだが、当時は誰かから連絡が来るのが嬉しくて、わざと着信音が鳴るように設定していたのを覚えている。

 あれから10数年が経ち、当時とは比較にならないほど携帯やパソコンやその他情報端末は便利になった。しかし、その便利さをどこまで実感できているかというと、僕の場合は結局、高校生の頃と大差ないんじゃないかと思う。写真や動画がメールに添付できるようになったり、ウェブに接続して電車の乗り換え時間を調べられるようになったりはしたけれど、それはやりとりできる情報の「精度」が上がっただけの話で、僕が携帯やパソコンに求めているものは、この10年間あまり変化していない。

 むしろ、いちいち「コミュニティ」に所属したり、つぶやいたり、レスをつけたりしなければ誰かとのつながりを維持できないような現行のシステムは、かつての「友人宅への電話」以上に煩雑な気がしてしまう。つまり「そこまでして・・・」なのである。本物と見紛うばかりの美しいグラフィックと多機能を誇る現在のゲームよりも、『スーパーマリオブラザーズ』の方がゲームとして面白い、というパラドックスに似て、技術は進化し続けるとどこか空しくなる。

 というようなことを、おそらくデヴィット・フィンチャーも考えているんじゃないだろうかと、映画『ソーシャル・ネットワーク』を観ていて思った。ハーバードの学生だったマーク・ザッカーバーグと仲間たちのfacebookの開発秘話、ともいうべき物語である。当初は学生限定のサイトだったfacebookは、瞬く間に全世界へと利用者を増やしていく。その加速度的な広まり方を表すように、映画も非常にスピード感のある演出がなされているのだが、登場人物たちもfacebookという怪物の成長速度に徐々に翻弄されるようになり、やがて人生が大きく変調をきたしていくのである。

 技術や産業や資本主義というものは、それ自体に進化・発展を目指すという本能が備わっているものだから、その良し悪しを論じるのは適当ではない。だが、どこか空しい。この映画を観終わると、そんな小さな虚無が胸の中で頭をもたげる。かつての仲間たちとの法廷闘争に巻き込まれ、facebookの輝かしい成長とは裏腹にプライベートは泥沼化していくマーク。彼は全編通してふてぶてしいほどに自信たっぷりで、余裕ありげな表情を崩さないのだが、それでもほんの一瞬、「こんなはずじゃなかったのにな」という表情を見せるラストシーンが、とても印象的な映画でした。
最近ようやく
わかってきた気がする


 邦ロックバンド、Theピーズ。キャリアは今年ですでに24年。その間、大きなヒットには恵まれず、幾度ものメンバーチェンジがあり、活動休止も一度経験している。かなり“傷だらけ”のバンドだが、彼らのロックは紛れもなく本物だ。

脳ミソが邪魔だ 半分で充分 
見えるもんだけが全てでいいんだ
「とりあえず今日も死んでない」それくらいわかればいい 
脳ミソ半分取っちまいたい


―これはアルバム『どこへも帰らない』(1996)に収録されている<脳ミソ>という曲の一節である。投げやりで、どん底で、自虐的。徹底的に後ろ向きなのがピーズの世界だ。だが、彼らの曲はいつも大事な何かを伝えようとしている。鋭い言葉のナイフで、虚飾も外聞もない、むき出しの感情が切り取られている。それを嗅ぎ取るたびに、僕はドキッとするのだ。

 曲を書いているのはボーカル/ベースの大木温之(通称ハル)。ハルの詞は僕にとって、一つの大きな指標である。常に唯一無二の存在感を示し、不変の位置から「ロック」という広大で茫漠とした世界を照らしている。前回書いたボブ・ディランと同様に、ハルもまたその影響を受けずにはいられない詩人である。

 だが、それにしても、ピーズの魅力を、その音楽から受ける感覚や感情を、文章で表すのはひどく難しい。というよりも、そもそもロックという音楽自体、「それがいかに良いか」ということを誰にでもわかるように説明することは、ほとんど不可能じゃないかと(開き直るようだが)思う。これは別に「音楽は言語化できない」という一般論ではなく、ロックという音楽の本質からくる問題なのだ。

 少々カタい話になるが、ロックを含めポピュラーミュージックとは、現代社会における個人の葛藤や、抑圧からの脱出をテーマに据えた音楽である。愛や、友情や、不安や、そういった「個」の感情を、音に直していこうという営みが、半世紀以上にわたってポピュラーミュージックを進化させてきた。しかし、個の感情(自我)とどう向き合い、どう抽出するかという方法論においては、ジャンルによって異なる。とりわけ、ポピュラーミュージックの双璧であるロックとポップスは対照的だ。

 ポップスはその名の通り(popular)、ある感情や人生のワンシーンを、最大公約数的表現に直す音楽である。性別や年齢や立場の違いを超えて多くのリスナーをカバーできるが、その反面、往々にしてリスナーの内面の深いところにまでコミットすることは少ない。要は、広く浅い。

 一方ロックは、狭くて深い。ロックの主眼は「個」の追究と、どこまでそれをさらけ出せるかに置かれている。ポップスのように誰にでも当てはまる共通項を抽出するのではなく、「自分が自分である理由」を追い求め、オンリーワンの表現を自然と目指すことになる。いわば素数的表現(そんな言葉は無いと思うが)なのである。別の言い方をすれば、ポップスは情景を歌い、ロックは意志を歌う、ということになる。

 だからロックは、そこで歌われている「個」に呼応する感性なりバックグラウンドなりが聴き手にも備わっていなければ、まったく響かない。感情移入の入口は、全てのリスナーに開かれているわけではないのだ。逆に言えば、もしピンとくるロックと出会えたならば、それは偶然などではなく、然るべき縁によって導かれた親友同士の邂逅に他ならない。とは言え、ただ聴くだけで「個」のあり方が問われる音楽なのだから、それをさらに他人に説明することなどは至難の業である。「ロックを説明する」ということは、そのリスナーの(この場合は僕の)感性や、世界への向き合い方、人生観、そういったものを共有すること無しにはできないのだ。

 以上はかなり極端且つ大雑把な論理であるし、例外もたくさんあることは百も承知である。それに、そもそもアートとは基本的に触れる者の個性に応じてさまざまに形を変える(人それぞれに受け取り方が変わる)ものである。だが、ピーズのような、特に言葉に直すのが難しい音楽と出会うと、いつもこういうことを考えるのである。

 ピーズにはハルともう一人、安孫子義一(通称アビ)という固定のギタリストがいるのだが、99年の活動休止の直前にほんの一時期だけバンドを抜けてしまうのである。その時期に作られたアルバムが『リハビリ中断』。つまりオリジナルメンバーはもうハル一人しかいないという状況で、おそらく喪失感やら敗北感やらでまさにどん底の状態だったのだろう、このアルバムの曲の歌詞はいつにも増して暗い。だが僕はこのアルバムが一番好きだ。
ティーンエイジと
ボブ・ディラン


 先日、みうらじゅん原作・田口トモロヲ監督の映画『色即ぜねれいしょん』を見た。同じくみうら・田口タッグが以前に撮った『アイデン&ティティ』もそうだったように、『色即ぜねれいしょん』でもボブ・ディランの曲が劇中至るところで使われていた。

 主人公の男子高校生は、ディランを聞いてロックに目覚め、夢を描き、彼の音楽から人生に関するヒントと愛にまつわる洞察を得る。主演の渡辺大知(黒猫チェルシー)は、ピュアで危うい「少年以上青年未満」な感じを絶妙なバランスで演じていて、素晴らしい存在感を放っていた。だがそれ以上に、作品全体から原作者みうらじゅんの“ディラン愛”が感じられて、僕としてはそっちの方がジーンときたかもしれない。見終わった後、無性にボブ・ディランが聞きたくなって、久しぶりに『追憶のハイウェイ61』をかけた。1965年のアルバムである。

 1曲目が<Like A Rolling Stone>。僕はこの曲を最初に知ったのは、オリジナルではなくて、ローリングストーンズのカヴァーの方だった。中学生の頃だったと思う。僕はてっきりストーンズの曲だと勘違いして(だって“Rolling Stone”だし)、ディランのオリジナルを聞いたのはずっと後になってからだった。ちなみにストーンズ版は、「やはり」というか「さすが」というか、ものすごくかっこよく、僕は未だに<Like A Rolling Stone>というとストーンズの方を思い浮かべてしまう。

 いずれにせよ、巨大な曲である。何度聞いても心の中に何かを残していく。映画『アイデン&ティティ』ではこの曲がラストを飾っていた。ただ、判官贔屓というわけではないが、僕としてはこの音楽史に残る1曲目よりも、その陰に隠れた残りの8曲の方を推したい。<悲しみは果てしなく>や<廃墟の街>などは、ディランの優しさが沁みるいい曲だ。表題曲の<追憶のハイウェイ61>もかっこいい。アルバムとしてトータルで見ると、この時期のディランの作品の中では、個人的には『Bringing It All Back Home』や『Blonde on Blonde』の方が洗練されていて好きなのだが、本作のジャリッとした苦さも捨てがたい。

 しかし、なぜボブ・ディランは“ロック”なのか。本作がリリースされた60年代中盤、ディランはフォークギターをエレキギターに持ち替え、バンドスタイルへと移行し、サウンド面でのロック色を強めていった。だがそれ以前からすでに、彼の音楽は紛れもなく「ロック」だった。フォークギターとハーモニカだけの弾き語りだった初期の頃からずっと。

 ディランの“ロック”とは、僕が思うに、彼の放つ言葉の力である。彼の綴る歌詞には、ハードロックのサウンドに負けないほどの強さがある。独自のボキャブラリー、独自のメタファー。彼にしか紡げない文体があり、彼の目を通すことでしか見られない世界がある。ディランの歌詞は、たとえ音楽がなくても言葉だけで自立することができるのだ。彼が歌手であると同時に「詩人」と呼ばれる所以である。

 だが、詩であるがゆえに、ディランの言葉を受け止めるには、それ相応の感性や教養というものが必要なのではないか、とも思う。少なくとも10代の頃の僕は、『色即ぜねれいしょん』の主人公のようにはディランの音楽を愛せてはいなかった。ビートルズの方がずっと近い存在だった。

 実は大人になった今でも、ボブ・ディランとビートルズとを比べると、同じ「好き」でも質的に大きな違いがある。ビートルズは文字通り「好き」なのだ。彼らの音楽と僕の自我は、もはや境界線がないくらいに混ざり合っており、聞いていると安心して思わず眠くなる。

 一方、ディランは「憧れ」なのである。彼のスタイル、とりわけあの詩には、一度触れたら影響を受けずにはいられないインパクトがある。真似してみたくなるのだ。ディランの音楽は、安心などではなく、むしろある種の緊張感を与えてくる。ビートルズが家だとしたら、ディランはその家の窓から見える、遥か彼方にそびえ立つ山の頂だ。「いつか自分も登って、その頂上から見える景色を、この目で見てみたい」と思わせる山なのである。
 

ローリング・ストーンズによる<Like A Rolling Stone>
http://www.youtube.com/watch?v=FT9Qy4gy4Ro