最近ようやく
わかってきた気がする


 邦ロックバンド、Theピーズ。キャリアは今年ですでに24年。その間、大きなヒットには恵まれず、幾度ものメンバーチェンジがあり、活動休止も一度経験している。かなり“傷だらけ”のバンドだが、彼らのロックは紛れもなく本物だ。

脳ミソが邪魔だ 半分で充分 
見えるもんだけが全てでいいんだ
「とりあえず今日も死んでない」それくらいわかればいい 
脳ミソ半分取っちまいたい


―これはアルバム『どこへも帰らない』(1996)に収録されている<脳ミソ>という曲の一節である。投げやりで、どん底で、自虐的。徹底的に後ろ向きなのがピーズの世界だ。だが、彼らの曲はいつも大事な何かを伝えようとしている。鋭い言葉のナイフで、虚飾も外聞もない、むき出しの感情が切り取られている。それを嗅ぎ取るたびに、僕はドキッとするのだ。

 曲を書いているのはボーカル/ベースの大木温之(通称ハル)。ハルの詞は僕にとって、一つの大きな指標である。常に唯一無二の存在感を示し、不変の位置から「ロック」という広大で茫漠とした世界を照らしている。前回書いたボブ・ディランと同様に、ハルもまたその影響を受けずにはいられない詩人である。

 だが、それにしても、ピーズの魅力を、その音楽から受ける感覚や感情を、文章で表すのはひどく難しい。というよりも、そもそもロックという音楽自体、「それがいかに良いか」ということを誰にでもわかるように説明することは、ほとんど不可能じゃないかと(開き直るようだが)思う。これは別に「音楽は言語化できない」という一般論ではなく、ロックという音楽の本質からくる問題なのだ。

 少々カタい話になるが、ロックを含めポピュラーミュージックとは、現代社会における個人の葛藤や、抑圧からの脱出をテーマに据えた音楽である。愛や、友情や、不安や、そういった「個」の感情を、音に直していこうという営みが、半世紀以上にわたってポピュラーミュージックを進化させてきた。しかし、個の感情(自我)とどう向き合い、どう抽出するかという方法論においては、ジャンルによって異なる。とりわけ、ポピュラーミュージックの双璧であるロックとポップスは対照的だ。

 ポップスはその名の通り(popular)、ある感情や人生のワンシーンを、最大公約数的表現に直す音楽である。性別や年齢や立場の違いを超えて多くのリスナーをカバーできるが、その反面、往々にしてリスナーの内面の深いところにまでコミットすることは少ない。要は、広く浅い。

 一方ロックは、狭くて深い。ロックの主眼は「個」の追究と、どこまでそれをさらけ出せるかに置かれている。ポップスのように誰にでも当てはまる共通項を抽出するのではなく、「自分が自分である理由」を追い求め、オンリーワンの表現を自然と目指すことになる。いわば素数的表現(そんな言葉は無いと思うが)なのである。別の言い方をすれば、ポップスは情景を歌い、ロックは意志を歌う、ということになる。

 だからロックは、そこで歌われている「個」に呼応する感性なりバックグラウンドなりが聴き手にも備わっていなければ、まったく響かない。感情移入の入口は、全てのリスナーに開かれているわけではないのだ。逆に言えば、もしピンとくるロックと出会えたならば、それは偶然などではなく、然るべき縁によって導かれた親友同士の邂逅に他ならない。とは言え、ただ聴くだけで「個」のあり方が問われる音楽なのだから、それをさらに他人に説明することなどは至難の業である。「ロックを説明する」ということは、そのリスナーの(この場合は僕の)感性や、世界への向き合い方、人生観、そういったものを共有すること無しにはできないのだ。

 以上はかなり極端且つ大雑把な論理であるし、例外もたくさんあることは百も承知である。それに、そもそもアートとは基本的に触れる者の個性に応じてさまざまに形を変える(人それぞれに受け取り方が変わる)ものである。だが、ピーズのような、特に言葉に直すのが難しい音楽と出会うと、いつもこういうことを考えるのである。

 ピーズにはハルともう一人、安孫子義一(通称アビ)という固定のギタリストがいるのだが、99年の活動休止の直前にほんの一時期だけバンドを抜けてしまうのである。その時期に作られたアルバムが『リハビリ中断』。つまりオリジナルメンバーはもうハル一人しかいないという状況で、おそらく喪失感やら敗北感やらでまさにどん底の状態だったのだろう、このアルバムの曲の歌詞はいつにも増して暗い。だが僕はこのアルバムが一番好きだ。