467.フィリピンの時の流に身をまかせ.7 | マリンタワー フィリピーナと僕といつも母さん byレイスリー
大晦日、この日も朝からお腹は絶不調、トイレを終わりコーヒーを飲みながらジョイと外に出て家の前の白い椅子に座る、テーブルを挟んでティタ(叔母)が座っていて「グッドモーニング」と声を掛けてきた、ティタはジョイのパパの弟のティトの連れ合いだがちゃんとシティホール(市役所、区役所)で働いている、娘は二人いて長女は小結サイズだが母親に似て優しい性格をしていて旦那と同居している、妹は何度もジョイを騙したあの従姉だ、優しく気配りの出来るティタにどうしてあんな娘が出来てしまったのか、日本で働こうと思ったら働けた従姉は今はフィリピン人の男と暮らしているらしいがワタクシがいる間クリスマスもニューイャーも一度も顔を出す事がなかった、ジョイは従姉に何度も騙されたからといって母親であるティタに文句を言わないのは見栄っ張りなフィリピン人の一人だからかもしれない、だが、このティタでは日本人のワタクシでさえ文句が言いずらく思えた、それはティタは優しくバランスのいい人間だからだ、程度問題なのだろうが子供が性悪だからといって母親に責任を被せない、それもフィリピンスタイルなのか?だがテ
ィタの人柄を知ると致し方ないと思ってしまうワタクシがそこにいた。



ママやパパや隣のティトはイロコスから帰って来たのは29日だった、当初は27日にケソンシティに帰ってくる予定だったが流石にフィリピン人滅多にしない旅行を楽しんだのだろう、イロコスに行っていればMarkさんやひろしさんにも会う事が出来なかったかもしれない、もちろんワタクシのペラ(金)が活躍したのは言うまでもない、大晦日の朝はクリスマスの朝と違い随分と静かで何時も忙しく動いている人たちが全くいない、だが少しずつ、少しずつだがその時に近づくに連れて騒がしくなっていく、夕方5時頃お昼寝をしていたワタクシはクリスマスでも掛かっていた重低音がズンドコズンドコと響きに起こされた、更にもう一台加わり重低音と重低音がぶつかり合い何の曲かも判らなくなりただウルサイだけの騒音になった、サッカーの観客がよく使うチアホーンが吹かれ始め単発だが花火の音も聞こえるようになってきた、下に降りて行くとテーブルの上にはスイカやフルーツ、食パンや食べ物がたくさん並べられている、カウントダウンがピークになるのは解っていたのでワタクシは再び二階に上がりアイパッドで時間を潰していた、そし
てカウントダウンが近づく一時間前に降りて家の前の椅子にジョイと座って街中がざわめきウルサイ中その時を待った。


若者たちが直ぐ側で爆竹や花火をやっているが誰も文句を言わない、それを見て摘まみを食べながら酒を飲みながら或いはワタクシのようにコーラを飲みながらペチャクチャと馬鹿話をしているといよいよ大音量のラジオでカウントダウンが始まった、ワタクシは当然カウントダウンに合わせてみんなが「スリー、ツー、ワン、イエ~ッ」となるのだと思っていたのだが、そんなのは全くなく相変わらず小結、関脇衆がペチャクチャ喋っているばかりで盛り上がりがなく「あれ」っとワタクシはスッカリ拍子抜けになってしまった、一応新年になった事を祝う花火が四方八方で打ち上げがあったが日本の花火に比べるとかなりショボい、フィリピンの新年は凄いと聞いていたのでちょっとガッカリしたが、ひょっとしたら地域によってはまるで違う盛り上がりがあるのかもしれない、何度も外国には行ったがクリスマス、ニューイャーを初めて外国で過ごしたがあっという間にサプライズも何も起こらずに終わってしまった。


元日の朝、久しぶりに下痢でなかったが二回目のトイレで再び下痢に見舞われた、しかし、その後食事と最低限の水分しか採らなかったので落ち着いた、痒みも隣のティタお勧めのローションを塗ると幾らか楽になった、だが腰の痛みに耐え兼ねティタの娘、ジョイの従姉に夕方にマッサージを30分ほどやってもらうと腰の痛みを幾らか和らいできたが時と共に何故か胸がムカムカしてきた、そして嗚咽の嵐が始まった、戻して一時間もするとまた戻しと7.8回も戻したろうか、下痢も続き、上から下までと朝の7時頃にやっと収まり、2時間ほど寝るとジョイが「アナター、ブラカン ダイショブ?」と聞いてきた、「こんな状態なのに行くの?」と聞くとカナダから来ているティタがどうしてもワタクシに会いたいと言っているらしい。


実はカナダのティタはフィリピンに里帰りすると決まった時からワタクシに会いたがっていた、カナダのファミリーはパパの母親、ティタ、ティタの子供たちだ、長い間ジョイのファミリーを支えていたのもこのティタがいたからに他ならない、だがティタがワタクシに何を言いたいかは以心伝心の如く察しがついていた、前回もドタキャンしているのでジョイが言うように2度目のドタキャンは失礼に当たると考えフラフラしながら下に降りて行った、ジョイに「ブラカンまで何れくらいかかるの?」と尋ねると「一時間」だと言う、何度もアイパッドの地図でケソンシティからブラカンの道のりを見るが、ワタクシの目だと3時間位はかかりそうに思えた。


ブラカンまでのドライバー代はもちろんワタクシ持ちだ、メンバーはワタクシとジョイの他にママとリアム、ジョイの弟のジェイジェイ、そして隣のティト(叔父)だ、一時間どころか二時間が過ぎた頃ワタクシのブラカンのイメージ通りの畑で痩せた牛が「モーッ」と鳴いているのが見えてきた、「何故、フィリピンの牛たちは畑を一頭づつ転々として一塊にならないのだろう」などとツマラナイ自問自答を繰り返しながら奥ばった道を入りやっと到着した、外から見た感じと違い家の中は随分と綺麗だ、中国の調度品や人形が飾られた棚、よく見るとマイセンらしき人形が何点かある、出迎えてくれたティタは二人、一人はカナダから里帰りしたティタ、一人はこの家を管理しているティタだ、二人共に如何にも優しく良家の出身のように見受けられる、元々パパの一族はイロコスの良家出身のようだがパパとティトだけが落ちぶれてしまったようだ。


ジョイがワタクシが具合が悪い事を伝えると「まず~い」煎じ薬を出してくれたがトイレに駆け込むワタクシ、だが不思議な事にこのトイレに違和感を感じた、事が済みケツを拭こうと周りを見ると桶がない、「あり」っと左側にトイレットペーパーらしきものがある、恐る恐るトイレットペーパーでケツを拭いたが果たして目の前にあるレバーを引いて水を流していいのか暫く考え思い切りレバーを引いた、だが桶でケツを洗う事に慣れてきていたワタクシ、慣れてしまうとはこんな物だろう、当然まだまだフィリピンでの生活には慣れてたとは言えないが少しずつ慣れていくしかない、それと体調を崩さないにはどうしたらいいかの対策を少しずつだが考え始めた、病院事態は歩いて10分のところに大きな病院があり緊急の場合はしょうがないがなるべくはそれ以前にどうにかする必要があるだろう、そういった意味では下痢も吐き気も痒みもいい経験になった。


話はそれたがティタが少し寝なさいと言うので甘えさせてもらいエアコンのある大きなベッドで休ませてもらった、一時間ほど寝たところで「食事が出来た」とジョイが呼びに来た、テーブルにズラリとご馳走が並んでいる、だが帰りの車の中で具合が悪くなってはいけないと余り食べる事が出来ない、ワタクシの隣ではティトがガバガバと海老をむさぼっている、誰かがタカログ語で「ハイブラッド(高血圧)なのに海老ばっかり食べちゃ駄目でしょう」と言ったようにワタクシには聞こえた、ティトは「そんなの関係ない」と更にパクついた、それを見て皆が笑っていた、タカログ語はわからないが何故か解ってしまった、先日お会いしたひろしさんが「タカログ語が解らなくても話している事は少しずつ解るようになりますよ」と言われたのはこの事だろう、別れ際二人のティタがワタクシに言ったのは「あなたがジョイのファミリーの中心になってもり立てて下さい、お願いします」確かにティタはワタクシに心を込めてこう言ったと思う、ワタクシは「フアグ マグ アララ(心配ないですよ)」と言うとティタ二人は優しい笑顔を見せた。


ティタ二人はワタクシたちが乗っている車が見えなくなるまで名残惜しそうに手を振っていた、フィリピン人に取ってのファミリーというものがどういう物か少しだけだが解った気がした。



次回に続きます、いつもご覧頂きまして心より御礼申し上げます。