389.褐色の花嫁.54 | マリンタワー フィリピーナと僕といつも母さん byレイスリー
ちょうど一年前、このブログを書き始めましたが、正直一年も続けられるとは思ってもみませんでした。



ワタクシが書き始めの頃はこんなブログを見て頂けるのかな、などと思いながらも一年間1日も休まず書いてこれた事事態、何でも飽きっぽいワタクシに取っては奇跡になのですが、支えとなったのは読者の皆様のお陰です、改めて御礼申し上げます。


1992年にワタクシは錦糸町という街に降り立ち、タイ人のハルと出会った事で人生は大きく変わってしまいましま、彼女はタイでも貧しい地域であるコンケーンという地域からやって日本にやって来た売春婦でした、しかし当時20歳の彼女はワタクシにはそんな職業には関係なく輝いた存在でした、そして恋に落ち、その後次々と多くの外国人の女性たちと関係を持ちその結果、家も財産も全てを無くしました。


詳しくはブログを見て頂けると有難いのですが、また始めから読んで頂いた方はお分かりかもしれませんが、ワタクシは失った物もたくさんありましたが、得る物もあった気がします、多くの外国人に囲まれ接してきた事で彼らの心にも触れられた気がします、タイ、フィリピン、バングラデシュ、ロシア、ルーマニア、中国、台湾、韓国、コロンビア、そこには国と国の問題などは存在しませんでした、人としてお互いが助け合って話合い心をぶつけ合いました。

台湾人のママを姉のよいに思い、フィリピーナを妹のように思いました、韓国人の若者を弟のように可愛がりました、タイのバンセーンでは貧民街の雪子の今にも潰れそうなアバラ家に行き貧しい人たちの生活も見ました、バングラデシュでは数千人の人たちが川の両サイドにズラリと家とも言えないものに暮らす姿も見ました、そして日本人は如何にノンビリと平和に暮らせているのかを知りました。


錦糸町で出会い友人となったバングラデシュのアリも貧しさから這い上がりジャパニーズドリームを掴んだ1人です、貧しい人は当然這い上がりたい、貧乏から逃れたいと誰もが思っているでしょう、日本に来ている多くの外国人の中にはそういう人はたくさんいます、もちろん、フィリピーナたちも皆同じ気持ちでしょう。


そういった人たちを国や肌の色も関係なく1人の人間として見れるようになったのがワタクシの得た大き物なのかもしれません、当然に悪党の外国人も多くいますが、日本人にも同じように、いやそれ以上の悪党は存在している、悪いやつはどこにでも存在しているのに外国人ということで目がいきマスコミに叩かれてしまう、そして世間の人はますますそんな目で見てしまう。


これから日本は外国人の雇用に門戸開放を行おうとしていますが、実行は他国より遅れている上に厚く迎える態度ではなく中途半端な見下した解放に見えるのはワタクシだけでしょうか、これからは国際的な目を持って物事の本質を見ていかなければならなくなるでしょう、10年先、20年先、30年先には外国人(アジア系)が日本で活躍している時代になっているでしょう、その時にワタクシはこの世にいないかもしれませんが、貧しかった国の人々から日本人は使えないと言われる時代がなっているかもしれません。

さて、ワタクシは今は母親の介護で動けません、ブログもここ2.3ヵ月はかなりアップアップの状態で更新して来たので一年経ったのを期にして少しゆったりしたペースで更新させて頂ければと思っております、コメントを頂いた方、読者の方々には誠にお付き合い下さいまして有り難う御座いました、心より御礼申し上げます。




「ピンポーン」


母親「誰なの?」


ワタクシ「高岡さんだよ」


高岡さん「これ、近くまで寄ったから、お母さんに」
警備員時代の先輩高岡さんは時々、顔を出してくれます
母親「高岡さん、すいませんねー」


高岡さん「お母さん、少し元気になったじゃない、よかったねえ~、いいお嫁さんもらって」


母親「ええ、本当によくやってくれてねー、良かったですよ、いい娘で助かってますよ」
老いてボケた母親ですが初めてジョイを誉めた瞬間でした、一年前には兄弟たちと一緒に結婚を反対していた母親が今ではジョイを認め母親にもワタクシにも無くてはならない嫁となったのでした、もはやそこには国も肌も関係ない世界となっていたのです。



「褐色の花嫁」