悪人は死後、地獄で罰を受けるという。業火に焼かれ、極寒に晒され、無数の針を刺され、折られ、切られ、潰され、砕かれる等の苦痛が延々続く。嘘つきは舌を抜かれるとか。
昔から色んな事を訝しんで、疑いの目を向ける捻た性格の私は5歳の時、地獄の存在が信じられず、しかし確証もなく、(母方の)祖父に聞きました。
「地獄ってホントにあるの?」
「地獄が有るかどうかは分からないけど、有っても大丈夫な生き方をしなさい。人に対して恥ずかしくない生き方をすれば地獄が有っても関係ないから」
そう言うと、祖父は道端に落ちていたゴミを拾い上げ、その後はゴミ箱が見つかるまでずっとゴミを手に持っていました。
聞くんじゃなかった。
祖父の答えなど分かっていたはずなのに。
地獄の存在を不安がるのは地獄があったら困るから。
清く正しい生き方をしてないと自分で思ってるから。
そんな俺の卑しい思考に、祖父は勘づいたろうか?
失望したろうか?
そんな事を思った。
ゴミが道に捨てられている事に祖父が気付く前から、私はそのグシャリと丸められた紙屑に気が付いていた。しかし周囲にゴミ箱が確認出来なかった。となればゴミ箱に出会うまでずっと手に持ってなきゃいけなくなる。私が捨てた物でもない。それで拾うのをヤメていたのだ。
「ゴミ箱あったら拾ってやったのに」
「捨てた奴が悪い」
「街のゴミなど知ったことか」
「気にしたらキリがない」
「ひとつくらい拾ったところで」
私が拾わない決断をした後に、全く同じ状況を突き付けられた祖父は、しかし私とは違う選択をした。
それを誰かに咎められた訳でもない。孫の私がゴミを拾おうとしないから祖父自ら拾った訳でもない。祖父は私がゴミに気付いていた事など知らない。ただ、5歳の私だけが知ったのだ。自分は祖父とは違う種類の人間なのだと。
「僕はまだ5歳なのにすでにこんなにも純粋じゃなくてこの先どうするんだ?僕より遥かに人生を生きてきた人がこんなにも汚れず生きているのに」
祖父は良い人でした。私は程度が低いので人から悪く思われるのは仕方ありませんが、祖父を傷付けたのではと申し訳なく思ったのを憶えています。こんなに幼い頃より純粋さが失われた孫だと知ったら悲しむのではないか?ガッカリするのではないか?そんな想いでした。
身近に正しく生きる人が居て、それにより劣等感を感じる反面、人を尊敬する機会を与えられ、生きていました。
私はその辺に転がる"ひと山いくら"の人間ですが、祖父という物差しがあるから、私よりも遥かに劣るクソが現れた時、怒りが湧いてくるのだと思います。
むしろ自分が低レベルだからこそ、そんな低レベルさえ余裕で下回ってくるアイツらに余計腹が立つのかもしれません。
積極的に悪行を働くってなんなんだ!
『地獄』(1960年)
中川信夫監督作品
仏教の概念における"地獄"を描いている。