池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅲ「処世術」12「ヴィトゲンシュタイン 考えるな、見よ」(8) 犬である彼との「言葉のやりとり」は 徹頭徹尾、私の「モノローグ」だ!言語ゲームはいつだって「人間の」言語ゲームでしかない!
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(18)-9 犬である彼との「言葉のやりとり」は 徹頭徹尾、私の「モノローグ」だ!言語ゲームはいつだって「人間の」言語ゲームでしかない!
★第2に人間が犬の心を「わかる」と言うことについての問い。(238頁)
☆例えば「ごはん食べようか?」と私が彼(犬)に語りかけると、彼は尾を振り、足踏み鳴らして嬉しく同意している。だが彼(犬)が「うん食べよう、たくさん食べよう」と言うことはない。(239-240頁)
☆犬である彼との「言葉のやりとり」は 徹頭徹尾、私の「モノローグ」だ。言語ゲームはいつだって「人間の」言語ゲームでしかない。(241頁)
☆「絶対的な他者」としての彼(犬)。(241頁)
《参考》ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とは何か?(参照ChatGPT)
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム(Sprachspiel)」は、彼の後期思想の中核だ。
★1. 「言語ゲーム」とは、「言葉の意味」は「それ(言葉)が使われている人間の営み(行為・慣習・文脈)」の中で決まるという考えを示すための比喩だ。
☆「言葉の意味」は「頭の中のイメージ」でも、「事物との対応関係」でもない。「言葉の意味」は「使われ方」(Gebrauch)にある。
★2. なぜ「ゲーム」なのか?ヴィトゲンシュタインが「ゲーム」と言った理由は重要だ。
☆(1) 「言語」において、「意味」や「文」の共通本質はない。「言語」は「ゲーム」のようなものだ。共通点は家族的類似(Familienähnlichkeit)だけだ。Cf. チェス、サッカー、トランプ、かくれんぼなどの「ゲーム」には明確な本質(共通本質)はなく、共通点は家族的類似(Familienähnlichkeit)だけ。
☆(2) 「言語」は「ルール」があるが、厳密ではない。ルールは社会的に共有されている。でも境界は曖昧。実践の中で学ばれる。「言語」も文法はあるが、でも完全に形式化できない、使いながら覚える。
(3)「言語」は「行為」と切り離せない。「ゲーム」は「行為」だ。同じく「言語」も命令する、報告する、質問する、冗談を言う、祈る、約束する、計算するなど、「話すこと」(「言語」)は、ある仕方で「行為」することだ。
★3. 「言語ゲーム」についての有名な例:「石板工」の「言語ゲーム」!(『哲学探究』§2 の例)
A:「石!」
B:(石を持ってくる)
ここでは、「石」は対象を指示する名前ではなく、ある行為を引き起こす合図。「石」の意味は「この共同作業の中で、こう使われること」。
★4. 「言語ゲーム」と「生活形式」(Lebensform):「言語ゲーム」は単独では存在しない。「言語ゲーム」を支えるものが「生活形式」だ。「生活形式」は人間の生活様式であり、身体的実践、社会的慣習、教育・訓練、感情の共有からなる。「言語ゲーム」は、「生活形式」に埋め込まれている。
☆「完全な私的言語」は不可能、すなわち(「言語」における)「ルール遵守」は「私的」には不可能で、「社会的」な現象である。
★5. 前期ヴィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)と後期ヴィトゲンシュタイン(『哲学探究』)との決定的違い!
☆前期ヴィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)では、①言語は「世界の写像」、②意味=「対応」、③言語は「論理形式」が基礎、④「哲学」は言語の「限界を示す」。
☆後期ヴィトゲンシュタイン(『哲学探究』)では、①言語は「行為」、②意味=「使用」、③言語は「生活形式」が基礎、④「哲学」は言語の「混乱を解く」。
★6. 後期ヴィトゲンシュタインにおける「 哲学」の役割の変化、すなわち「言語ゲーム」論から導かれる哲学観:(ア)新しい理論を立てない、(イ)言語の「使われ方」を見せる、(ウ)問題を「解決」するより、「解消」する。ヴィトゲンシュタインは「哲学は言語の魔術を解く」と言う。
★7. 「言語ゲーム」論と他者・ルール・規範との関係:①意味理解 ≠ 内的表象、②意味理解 = 「共同実践への参加」、③ルール理解 = 〈明示的知識ではなく、「身についた振る舞い」〉。
☆他者とは「心を推論する対象」ではなく、「同じ言語ゲームを生きる存在」だ。ここが、「心の理論」モデルへの根本的批判になっている。