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池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅲ「処世術」12「ヴィトゲンシュタイン 考えるな、見よ」(9) 規則に従っていると《信じている》ことは、規則に従っていることではない! 

※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫

(18)-10 「言葉」は「共同体の文法規則」に従ってしかあり得ない!人は規則に《私的に》従うことができない!

★ヴィトゲンシュタインは「思念することは心の領域の中にある『私的な』何か・・・・そして把握できない何か」だと言う。(『哲学探究』358)(240-241頁)

★〈人は規則に《私的に》従うことができない。(『哲学探究』202)(242頁)

「言葉」は「共同体の文法規則」に従ってしかあり得ない。(243頁)

 

(18)-10-2 規則に従っていると《信じている》ことは、規則に従っていることではない!《信じる》という「言葉」は、実はそれは「言葉」ではない、それ以上先が言えない絶句的状態だ!

★〈《規則に従う》ということは一つの実践である。そして規則に従っていると《信じている》ことは、規則に従っていることではない。〉(『哲学探究』202)(242頁)(※すなわち規則に従っていると《信じている》ことは、規則に従うことと別!)

☆池田晶子氏が言う。「《信じる》という言葉は、他のどのようなコギト動詞とも並列できない、つまりそれは言葉ではない、それ以上先が言えない絶句的状態だ。」かくて「文法は《信じる》の語だけは決して扱えない。」(243-244頁)

 

《参考》「コギト動詞」とは何か?(参照ChatGPT:

コギト動詞とは、デカルトの有名な命題「Cogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」における「思う(cogito)」という動詞の特異性を指す哲学的な表現だ。

★1. そもそも「コギト」とは?

ラテン語 cogito は「考える」「思う」「意識する」「疑う」など広い意味を持つ。デカルトはすべてを疑っても、「疑っている私」の存在だけは疑えないという地点に到達した。「コギト」(Ex. 「思う」「疑う」)という行為は、それを行っている「主体の存在」を同時に示す

★2. なぜ「コギト動詞」と呼ばれるのか?

「コギト動詞」とは、発話するだけで、「発話主体の存在」が同時に確証されるタイプの動詞だ。たとえば「私は疑っている」、「私は考えている」、「私は意識している」、これらはその行為が成立している時点で「主体の存在」が実演的(performative)に示される。「コギト動詞」とは発話と同時に主体の存在を確証してしまう特殊な動詞形式だ。