池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅳ「学問はお嫌い?」15(その3)「ヒューム 見えるもの、見ているもの」(3) 「因果関係」は「論理的」に必然的(「必然的因果」)でなく、「観察と経験」にもとづく「習慣的」な関係(「見慣れている」関係)にすぎない!
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(24)-2-2 ヒュームにおける「因果関係」の懐疑の理由:「AがBの原因である」という関係そのものは、AとBとをそれぞれ観察することによっては「知覚されない」!
★③「因果関係」の否定:何と言っても面白いのが、合理論においてはその必然性を疑われることの決してなかった「因果関係」をヒュームが疑い、検査してゆくその過程だ。(池田晶子)(304頁)
☆「AがBの原因である」とい関係そのものは、AとBとをそれぞれ観察することによっては「知覚されない」というのが、「因果関係」の懐疑の理由だ。(304頁)
☆AがAであり、BがB であるその限り、「AなしのBを考える」ことが確かにできるのだから、「AとBとを必然的と関係づける」ものは、言わば「外から取ってつけたようなもの」でしかないはずだと、ヒュームは言う。(304頁)
(24)-2-3 「因果関係」は「論理的」に必然的(「必然的因果」)でなく、「観察と経験」にもとづく「習慣的」な関係(「見慣れている」関係)にすぎない!
☆ヒュームによると「観察と経験」とがその(AとBとを関係づける)役目である。(304頁)
☆「Bの生起には必ずAが伴っている」と観察されることが「習慣的」になったもの、それを「必然的因果」と錯覚しているのだと、ヒュームは言う。(304頁)
《要約》「因果関係」は「論理的」に必然的(「必然的因果」)でなく、「観察と経験」にもとづく「習慣的」な関係(「見慣れている」関係)にすぎない。
☆「卵」と「鶏」とを、下心なくただ眺めている限り、「卵が鶏の原因である」と言える「論理的」な理由は全然ない。「卵が鶏の原因である」と言えるのは、鶏が卵から生まれるのを「見慣れている」からでしかない。(※「習慣的」な理由!)(304頁)
☆ヒュームのこの指摘は(ヒュームがこのような事例で説明しているわけではない)、いかに唐突に響くのであれ、おかしいところはないように思われる。(304-305頁)
☆「そのつどの個別的知覚を絶対とする」限り、どうしてもそういうことになってしまう。(305頁)
(24)-2-4 「科学」という営み:「個別的観察から一般的法則を帰納によって導き出す」!
☆そして誰もが「困ってしまう」。なぜといって、「個別的観察から一般的法則を帰納によって導き出す」ことこそ、「科学」という営みに他ならなかったからだ。(305頁)