絶望に震えながらも足を懸命に奮い立たせて来た道を戻ろうと逃亡を図る。
しかし、達人から逃れることは容易ではなかった。
すぐに腕を引かれ、千音子の肩に担がれる。
「その先は崖だ」
そういえばさっき岩を登ってきたんだった。
「この阿呆面は貴女しかいないわね」
私の顔を凝視しながら頬をつつく火手引は「天仙の力はどうしたのよ」と続ける。
「もともと、そんな力は持ってない」
天仙の能力など最初から無い。
しかしこの世界に来て【気】を感じ取り、調整しコントロールさえ出来るようになり、内功の力を消滅させたり奪ったりしてきた。
血は丸薬にすれば一般人の回復に使えたというのに。
ウンスのように医療の知識もなければ、本編も最終回を迎えているので先の事は分からない。
特技があるわけでもない私。なんの役にも立たない人になってしまった。
小屋に連れ込まれて放り投げられたが、すぐに殺されるという雰囲気ではなかったので、バッグから絆創膏を出して切れた指に巻く。
この世界にきてから能力が備わったと思っていたが、神の話を思い出した。
彼がいうには、奥方の欠片が私に入ったから作られたこの世界。
そして本編には登場しないチェ・ヨンの姉の末裔という繋がり。
「もしかして……」
神に欠片を返したから、特殊能力が消えたのかと思い至った。
「えっと、チェ・ヨンのお姉さんは存在してる、よね?」
「なによその変な尋ね方は」
「…存命だ」
存在しているという質問を生きているかと捉えてくれたらしく、腕を組んで壁に寄りかかる千音子が答えてくれる。
奥方ハヌルの欠片が抜かれたとしても、作られた世界はそのままだしそこに登場した人物は存在していた。
「良かった」
「どこが良いのよ」
「こうしてまた火手引と千音子に会えたから」
この世界の二人は、死ぬ運命を免れて生きている。二人の心に変化が起きたからだ。
「誰に奪われた」
真剣な眼差しで問う千音子は、私の能力が奪われたと思っているらしい。
その相手を引きずり出すような殺気を漂わせている。やめて本気でやめて。
「奪われたんじゃなくて、借りてたのを返しただけだから」
「意味が分からないわ」
「普通の人間なの、私は」
もともとは平凡な人間だったのだ。それに戻っただけの話。
「さてと。二人には申し訳ないけど、また天門まで案内してくれる?」
ちゃんとお礼はするよ。と、バッグから化粧品を取り出した。
役に立たない一般人は、早々に現代へ帰ることにする。
「新色の口紅でしょ、潤いの椿油やまとめ髪用のも持ってきたよ」
火手引は興味津々で口紅の色を確認していたが、千音子は興味がないが「いいのか」と言う。
「いいのいいの。そんなに高額な物じゃないから」
「違う、皇宮のことだ」
化粧品のことではない、千音子が言いたかったのはウンスや王達のこと。
私が戻るのを待ってくれている人達がいるのは分かっているけど、能力がない私はお荷物だと思う。
ちゃんと話して別れを伝えたいけど、会ったら心がぐらっぐらに揺らぐから彼にも会いたくない。
「この品々もいいのだけど、王様から報酬が出るのよねぇ」
「報酬?」
「貴女を無事に連れ帰ったら、褒美をくれるって」
「護衛だ」
そうだ、二人の舎兄である徳成府院君は元(げん)のキ皇后の兄だった。
府院君の繋がりがで私を元へ連行するつもりだ。
「勘違いしているだろうから言っとくけど、王様ってのは恭愍王よ」
「は? え? 二人は、どうして……?」
高麗で悪事を働いた二人はなぜ許され、いくら報酬が出るからといっても王に従っているのか。
「五年も投獄されて鞭打ちなんて、傷が残っちゃったわよ」
「へ、へぇ…」
この時代あれだけの罪を犯して鞭打ちで済んだなんて、寛大な処置を下した王様に心から感謝を送る。
火手引が言うには、天門の見張りと私達が戻った時に皇宮までの護衛を条件に、牢屋から出されたらしい。
ウンスも八ヶ月前には天門に現れ、ぎゃあぎゃあ騒がれながらも皇宮へ送り届けたそうだ。
彼女はこの世界で運命の人を見つけ、結婚して幸せに暮らしていくだろう。
「だから、貴女を連れて行かなきゃならないのよ。牢屋行きはもうごめんよ」
「じゃあ、これはあげない」
「いいじゃない。この色、私のためにある色じゃないの」
買う時に火手引姐さんを思い浮かべたけど、私の希望に沿ってくれないなら交渉決裂です。
「天門が開いているとは限らない」
千音子の言い分は理解しているし、おそらく今は開いていない。
しかし私の天門渡りと、ウンスの計算通りの天門とは違いがあると思う。
気がついたら天門をくぐってましたという感じだったし、谷に落ちたら実家の裏山に戻っていたし、私が望めば開くと──
「あ。欠片がないから、そんなご都合主義な展開があるわけなかった……」
今まで実家の裏山の祠から何度も渡れたのは、私の中にこの世界を創造したハヌルの欠片があったからだと項垂れた。
じゃあ、もう現代に戻れないのか。
「日が出ているうちに、皇宮に着きたいのだけど」
この見張り小屋から、早く出発したいらしい火手引。
「天仙の能力がないから、報酬は出ないんじゃないかな」
「それを決めるのは王だ」
そだねー。
足取りが重い私を立たせて小屋から出て、皇宮へ向かい歩いていると前方から黒いモノが勢いよく走ってきた。
「ブ、ブラックサンダー!?」
いつも私のピンチに駆けつけてくれた黒い馬。
奥方の欠片があったから助けてくれたと思っていたけど、天仙でなくなったのに来てくれるんだねと擦り寄ってくる鼻を撫でた。
黒馬をを追って来たのか、また違う馬が駆けてくるのが遠目に見える。
服装からして近衛隊っぽい。
私は慌てて黒馬に跨り、腹を蹴りながら馬に頼んだ。
「逃避行に付き合って」
***
太陽が落ち、空がオレンジ色と変化していく。
思えば遠くへ来たもんだ。そろそろ私の尻と股が限界を向かえていた。
咄嗟に逃げたが、それが最善の策と思っていない。
風をきって駆けたお陰で、頭を冷やして考えた。
いつも逃げる選択をしてしまう自分。何の解決にもなっていない現状。
頬を叩いて喝を入れて来た道を戻ろうと手綱を引くが、ブラックサンダーの足に投石紐が投げ込まれ馬の足を封じられてしまう。
危うく落馬しかけたが黒馬が持ちこたえてくれて、私は安全に降りることが出来たが。
「山賊…?」
近衛隊か火手引達かと見回すと、賊らしき男たちが草むらから出てきた。
馬と女と大きなバッグという三拍子揃った恰好の餌食を前に、山賊の五人は舌舐めずりをする。
これは、バッグの中の全財産を渡しても逃がしてくれなさそうだ。
馬の足には紐が絡んだままで走れそうもない。
この黒い馬は何度も私を助けてくれた馬、その子を置いて逃げることはしたくない。
五人の位置を把握しながら、懐に忍ばせた果物ナイフと特性唐辛子スプレーの使い所に思考をフル回転させていると呑気な声がかかる。
「誰かと思ったら、天仙か?」
どこから声が、とキョロキョロと見回しているうちに木の上から軽く降り立った男。
今まで昼寝でもしていたのか、欠伸を漏らしながらこちらに歩いてきた。
「なんだお前!?」
どうやら山賊とは無関係らしい。
髪も髭も伸び放題なので誰かと思ったら、岩の内功サナギンであった。
「この女に何かあったら大護軍様が黙ってねぇぞ。どうする?」
「大護軍!?」
驚いたものの、そんな存在が私や無精髭ボサボザの男と関係があるわけがないと、山賊たちは笑い飛ばす。
そして各々持っている武器を振りかざし、サナギンに襲いかかる。
チェ・ヨンが大護軍になって天門周辺の領土を元から奪い返した話があったなと、明後日の方向に意識を飛ばしているうちに、山賊達はあっという間に倒されて足を引きずり仲間を担ぎ山へと逃げていった。
「よお、何年振りだ」
「生きていたのね」
天門前での死闘で府院君は完全に凍ってしまっていたが、火手引たち二人は生きていたのでサナギンも生きているだろうと予想はしていたが、まさかここで遭うとは。
「死ぬかもしれねぇって絶望しても、結局まだ生きている生きられるってぇ瞬間に快楽を覚えちまってな」
「変態」
生への執着が凄まじいのか、それともドMなのか?
そんな変態でも謝礼はせねばとバッグを探り、この世界で稼いだ小銭を渡した。
おそらく彼も私を助けた目的は金だろう。山賊に加担しても、金は手に入らないと分かっていたから。
「助けてくれてありがとうございます。それではまた」
「おいおい、どこに行くんだ。また賊に襲われてぇのか?」
馬の足に絡んだ紐を取り外し、手綱を引いて歩き出そうとした私を止めるサナギン。
彼の意見は尤もであるが、彼を雇う金は無い。
「お金はないよ」
「それは後で考える。お前に関わっていると面白ぇから、ついていこうかなぁって思ってな。いいだろ?」
この男は、いいだろとお伺いを立てているようで、拒否しても強引についてくるタイプだ。おもしれー女認定しないでいただきたい。
護衛としてお願いすると、汚れた顔をボリボリと掻きながら休める場所を教えてくれた。
彼のいう場所まで歩を進めると、小さな村に到着する。
宿屋に向かおうとするサナギンの腕を掴んで引き止めた。
「金がないって言ったじゃん」
「とりあえず、コレで払っときゃいいだろ」
私が渡した小銭の入った袋を掲げて宿屋に入り、馬を繋いでいるうちに勝手に部屋を取ってしまったらしい。
「上の端の部屋だ。俺は川に行ってくる」
「勝手だな自由だな相談しない男だな」
「ははっ、それよく言われてたわ」
「笑い事か。……川で魚でも釣ってくるの?」
「汚れを落としてきてくれって店主に言われてな」
「それはそう」
何日も野宿し整えることがないまま自由に生きてきた彼の姿は酷く汚れており、そのまま寝台に横になられたら後々の掃除が大変だろう。
「先に寝てろ」
「ちょい待ち。まさか一緒の部屋?」
「仕方ねぇだろ。他の客で埋まってんだからよ」
金も掛かるだろ。と言われれば我儘を言っている場合ではないことは理解した。
馬に水を与えながら、首元を擦るがやはり【気】は拾えない。
「ごめんね。もう疲労を軽減できないの」
遠くまで駆けてくれて疲れが溜まっている馬は、濡れた鼻先を震わせて「大丈夫」と言っているようだった。
筋肉痛になりそうな足腰を労りながら、宿の二階にあがり部屋の寝台に倒れ込む。
「こんな調子で、私、ここでやっていける?」
天井を眺めながら、今後についてあれこれ考えた。
もう一度、天門に戻って様子を見てみよう。
そして火手引と千音子に逃亡してしまったことを謝り、一緒に皇宮に戻れば二人は牢屋に入ることもなく報酬を貰えるだろう。
ウンスは怒るかもしれないが、王様達に力が無くなったことを伝えれば帰ることを許してくれるだろう。
帰れるのがいつのなるのか分からないから、どこかで働き口を探さないと。
チェ・ヨンはおそらく倭寇や紅巾軍との戦いで多忙を極め、高麗を不在にしている可能性が高い。
今は、会いたいけど会いたくない複雑な心境だった。
明日、朝一にここを出て二人がいた小屋を目指そう。
そう考えがまとまると、自然と瞼が下がり睡魔に襲われた。
「無防備すぎんだろ」
サナギンが戻ったのだろうか。
しかしもう私は夢の淵へ浸かりかけていたので、応えることが出来ずにそのまま眠ってしまった。
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