典医寺の私室に、チェ・ヨン隊長が暗い表情を隠そうともせず現れ、椅子に腰かけたと思ったら頭を垂れ、言葉を発することもせず無言のまま彼是 半刻が過ぎました。
私も解毒薬の完成を急がねばならぬので放っておきましたが、チェ尚宮が来訪したからには放置というわけにはいきません。
茶でも準備しますか。
「ヨン。何だ、その面(つら)は」
「突然、何だとは何だ」
「だから何だ、と聞いておる」
「だから、何だ?」
「………… どうぞ」
叔母と甥の、少し子供のような会話が始まったので、茶を出して止める。
隊長は使臣の条件内容を聞く事と暇(いとま)の許可をいただくため戻ってきましたが、ソラ殿は「王様には会えないかも」と言っておられたが、その通りでした。
しかし、会えなかったから塞ぎ込んでいるわけではなさそうで、おそらくソラ殿に関りがある気がします。
「王は、二人を連れて逃げろと仰せだ」
尚宮は、王が天仙と医仙の引き渡しを決断した、と続ける。
「天仙は既に手裏房に滞在している。医仙も先程、チュモとそちらへ向かわせた」
「早いな。…… 天仙の先見か」
「…… ああ」
「ならば、王命が下る前に発ったことにせねば、背いたことになる。早く逃げろ」
「…………」
考え込んでいるのか、隊長は口を結び険しい顔をしたまま、また俯きました。
私は、引き渡された後の話を尋ねてみます。
「チェ尚宮、天仙と医仙は引き渡されたらどうなるのでしょうか?」
「…… 二人は国を騒がせた妖魔として処罰される。医仙は公開処刑、天仙は元国へ貢女として贈られることになった」
ソラ殿は、条件の内容までは仰らなかった理由が分かりました。
隊長は拳を強く握り、静かに怒りを抑えているようです。
それは言わなかった彼女にですか?
医仙を処刑し、彼女を欲する元国に対してですか?
「妖魔とするならば医仙と同じ処刑ではなく、なにゆえ、天仙は貢女となるのでしょう。お力を欲しているのでしょうか?」
「そうだろうな。妖魔だとて、天眼通を持っておる女人は貴重だろう」
いえ。それだけではないと思われます。
ソラ殿は、使臣と徳興君は繋がっていると助言くださいました。
「いや。内功の力を欲しているのだろ」
隊長も気づき、二人の繋がりにより、欲している理由が分かったようです。
「内功の? …… まさか、断事官が例の話を知り、信じたというのか?」
【内功の始祖】の交合により授けられると、徳興君から使臣の耳に入っているのなら、貢女として献上しろと言うのも頷けます。
耐えきれぬと隊長は勢いよく立ち上がり戸に手を掛けますが、立ち止まり、踵を返し再び椅子に座りました。
「何をしておる」
「…… 天仙から、王妃を守護しろと言われた」
「何かあるのか?」
先程から隊長が苛ついている意を漸く理解しました。
ソラ殿から、そう命じられては隊長も従うしかなかったようです。
「ソラ殿はこう仰りました。── 数日後、王妃宛に書簡が届き、王妃様は使臣からと信じ、普済(ポジェ)寺へ向かい、姿を消す。しかしそれは罠で、拉致され監禁される、と」
「なんと!? 何故、王や王妃に言わぬ!」
「お怒りはご尤もですが、ソラ殿の先見は確実ではありません。お二人に報告し、不安を煽ってはいけない、苦しめてはいけないと、」
「それは、…… しかし、」
「王妃様の体調に気を付けて欲しいと。精神が不安定では、体に障るのでと気にしておられました」
これから朝晩、冷え込んできます。
王妃は、体調を崩すのかもしれません。
「私達で、秘密裏に王妃様の拉致を阻止しなければなりません」
「誰がそのような事を、…… 徳成府院君か。いや、奴はそんな回りくどいやり方はせんな。…… あやつか」
「はい、徳興君です」
そんな大それた事を起こそうとする者は、ただ一人。
王座を狙うあの者だ。
チェ尚宮は大きく溜息を吐いて、天を仰いだ。
捕らえられない相手、私達が手を下せる相手ではないと嘆いておいでです。
「お前はどうする」
まさか徳興君を捕獲しようとは思うなよ。
と、釘を刺す尚宮に、隊長は握っていた剣を床にドンと打ち付けて「わかっている」と言い放つ。
尋問すら王に止められたので、捕獲などもってのほかです。
「王妃が寺へ赴くまで、俺は皇宮を出た事にして、暫く身を隠せと ……」
ソラ殿に言われ納得はせずとも、彼女の意図を汲んで此処に留まっているのですね。
自分より王妃を。
彼女らしい発言ですが、納得できません。
「そうか。ならば頼んだ、」
「お待ちください」
私は叔母と甥の間に割って入る。
尚宮として王妃が一番だということは承知です。
ですが、私達にとって一番は、
「チェ隊長。貴方は、手裏房へ向かいソラ殿と医仙の守護をお願いします」
私の発言に二人はぽかんと呆けています。
「こんな状態の隊長に、王妃様の護衛が勤まるとは思えません。王妃様の方は、私とチェ尚宮で対処致しましょう」
「こんなだと」
隊長は立ち上がり睨んできますが、覇気がありません。
「此処に来てから、幾度溜息を付いたと思いますか。そのような状態では、守られる王妃様が不憫です」
反論できずに佇む隊長。
もう少しですかね。
「貴方が行かぬなら、私がソラ殿達の護衛に向かいますが?」
「お前 ……」
本当なら自らソラ殿を守りたい。
ですが、私は典医寺の侍医。
此処から動くことが出来ぬ身。
貴方に託すしかありません。
「あ、ああ。そうだな。心ここにあらずの甥など役に立たぬであろう。さっさと行け」
ソラ殿の怒りをかってでも、彼女を守りたいのなら側にいるべきです。
そう瞳に込めれば、隊長も意を決した瞳を私達に向けました。
「私物を処分したら発つ。あとは頼む」
もう皇宮には戻らない覚悟ですね。
ソラ殿と逃亡の道を行くとなれば、もう此処には戻れないでしょう。
近衛隊長が皇宮を離れ女人達を守護するということは、そういうこと。
王と部下を捨てる事になる。
その事を彼女は知っていて、此方に留めたかったのですね。
隊長は剣を握りしめ、人目に付かないよう裏手から去っていった。
「では、王妃様の体調や不審な動きがあれば、ご報告を宜しくお願いします」
尚宮も周囲に気を配りながら去っていく。
「…… ソラ殿」
扇子を開くと、チンダルレの花が描かれています。
貴女のような花。
これを選ばれた時は、私の想いを読まれたのかと焦りました。
「この子がいいです。この子ならチャン侍医を守ってくれます」
そう言われた時、私は「貴女に守られるのではなく、守りたいのです」と願い出たかった。
しかし、貴女の言葉の意味が、今なら分かります。
扇子が私を守るとは、可笑しな表現だと感じたのです。
もしかしたら、私がこの扇子を使い戦う事を知っていたのですね。
無意識ながらにも、このチンダルレの扇子を選ばれた。
貴女が側にいるようで、心強いです。
この命の代えてでも、王妃様をお守り致しますゆえ、
貴女はどうか、捕まることなく逃げ果せてください。
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