ついに来る末法の晩節。本気でこの世紀末を乗り越えたいヤツだけが理解できる、偽物には解らないことだけを、ひたすら記録しておく。
みんなの回答を見る
教養だとか知性だとかが蓄えられる前に、普通、人は「経験」を重ねる。時に褒められ、時に怒られ、時にそれは快感で、時に不快感なものである。そういうものを認知すればするほど、どういう風に自分を制御すれば良いのかと、脳は「重層的」に次々と新しい思考回路を紡ぎあげていく。この変化を「成長」と呼ぶのである。自己改革と言っても良いだろう。「重層的」を強調したのは、有名な「腫瘍の問題」を思い出し、それが、いわゆる「知能」の分水嶺に例えられるように、「認識」とか「認知」というものが平面的であったり、二次元的でしかないのでは、「人足りる」と言い難い時代に入っているからである。これから押し寄せる時代に必要な「次の知性」の在り方を話さない改革なら、誰がそれを進めても「差別」を助長すると訴えたい。「腫瘍の問題」は、xy軸しかない平面を描く数学では解けない。新たにy軸を設け、それを正確に空間認識として捉えている限りにおいて解ける問題なのである。いわゆるコンピュータ知識の水準が上がり平準化すれば支障がないという単純な話ではない。そのくらいの数学脳や空間認識ならばもうあるし、すぐに体得できると侮る人が多いのである。もちろんこれが難しいから、人類の文明に陰りが見えているのである。私には「バカをバカにする悪趣味」があるが、実はこれが健全なのである。人間はもれなくバカだからである。想像はできるのに実現できず、後悔を抱いて死んでいくものだ。言い訳がましいが、私はこの人類共通の悪趣味を称えているだけなのである。いやいや、閑話休題。焼いてはいけない細胞を完璧に避けるレーザーや、瞬時に認知症を治すナノマシンや、好きなように能力を上げる魔法の薬の開発は、たしかに魅力的で実用的と思われる。しかし、我々は一体なにを犠牲にしてそれを手に入れるだろうか。残念なことに、夢想家の描く未来は来ない。むしろ予想よりも「すばらしい今」を迎えることだろうが、おそらく勘違いである。ロマンを咎めるつもりはない。しかし、バカ正直に考えると、これが、サイエンスファンタジーと現実の区別がつかない人を無くそうとしているということに気付く。しかし、我々にはその際に起きる事象が想像できない。これが思いのほか危険な核兵器開発以来と言えそうな命題であることに気付くのである。
1924年、孫文は神戸にいた。その土地で開かれた講演で孫文がこう云ったそうである。「西洋の物質文明は科学の文明であって、即ち武力文明である。これは古から云うところの「覇道」であり、東洋にある「王道」に対峙する文化である。その覇道文化を取り入れた日本が、これから西洋の番犬となりはしまいかと心配だ。私は、日本がこれまで通りの道徳や仁義を大切にする王道の干城であってほしいと願う。日本が東洋を守る盾であってほしいと願っている。」
よく事情が解らないという人には、文科系と理科系の戦争に感じたり、宗教家と科学者の戦争に見えるかもしれないが、間違いなくこれは単純に知性と反知性とで保ってきた秩序の崩壊のことについて言っている。その時代に生きていた人がいないことが悔やまれるが、しかし、我々は記録の上ではおよそ20の文明のほとんどを自ら壊してきた。その原因が、知性と反知性の秩序が壊れたことだと結論付けることが、多くの人の頷きを観ることのできる最もスマートな答えなのである。さて、我々はまず、壮大な勘違いを改めなければならない。例えば、「神」を理解した気分でいたことや、一方で無視してきたことである。そして、「科学」を普遍的な善と思い込んでいたことであり、いかなるときも制御可能な力だと信じているところである。我々に望まれる態度はこうである。「既知のものを科学と呼ぶしかなく、未知のものを神と呼ぶしかない。」。しかし、今言ったことを諭すはずの知識人、文化人と呼ばれて久しい者の大半がこれを心得ていない。要するに、我々には今、このヒステリアを鎮めてくれる「父」がおらず、「手本」もないのである。これは「無」を嘆いているのではなく、それらを認知できない低い知性を揶揄しており、それを否定する似非学問を狂信する者が自ら首を絞める現状を揶揄するものだ。我々の目に映るのは、いつだって論理だけであり、我々が出来ることはもう決まっている。可能な限り多くの人々が「幸せだ」と言うはずの、既知の知恵を正確に思い出し、最大の再現を期すために正確にトレースすることのみなのである。言わずもがなであるが、それが出来そうもないことが本当の危機である。私は、世界中の国々がそれぞれの文化を棄てることを促しているのではない。「これまで出来ていたことが出来なくなってはいまいか」と、問うているのである。あくまでもそうではないと言うのであれば、人類はまた「欲望」のせいで、ゲーム理論の反省も忘れた自惚れや奢りをエネルギーにした戦いを覚悟しなければならない。そして、勝者は、その謬ちを名誉として語り継いでいくしかない。人が生きる場所があればだが。
札幌高判平成12年3月16日判時1711号では、「見逃し」を、「正犯者の犯罪を防止しなければならない義務のある者が、一定の作為(積極的な行動)によって正犯者の犯罪を防止することが可能であるのに、そのことを認識しながら、その行動をせず、これによって正犯者の犯罪の実行を容易にした場合に成立し、作為による幇助犯と同視できる」と判断をしたことが記されている。「見逃す」という行為が犯罪に当たると見做されたケースである。さて、この判例があったのが平成12年。似たようなものはいくつもあったであろうが、とにかくそれから20年が経った。なんと虚しいことか、政治家がこの犯罪を推奨する時代を迎えた。弁護士法違反をする疑いのあるNHK集金人に、「わざと」その犯罪をさせようと企図し、なんとこれを支持者に唆しているのである。開いた口が塞がらない。これでは完全に反社会的であって、どこに民衆を覚醒させるような正義があるのかわかったものではない。
「NHKをぶっ壊す」が大流行したという妄想に苦しんだままの立花氏が、「愛と静」と宣言したのが昨年の一月だった。病気の進行はかなり早く、素人目にも危険水域はすでに超えてしまっていた。そして、年頭の誓いは翌月にはあっけなく忘れられたのである。世界中のアルゴリズムが不合格を導くであろう彼らの選挙戦略については説明するまでもなく「ない」。彼らはヴィトゲンシュタインに挑戦するかのように、矛盾律という絶対に破壊不能な壁に何度も突撃するだけである。それが仕事だと宣ってしまったのである。儚く水の泡と化すこれを危惧した賢人の費やした時間。新しいデザインの宗教。部族化した民々。新しい強力な武器。野良犬や野良猫だって、喧嘩相手の生きる術までは簡単に奪ったりしないのに、彼らは、生きる勢が無くなるまで「心」を奪い粉砕する。恐ろしいことに、これらが国際法で禁じられていることであるのにも関わらず、彼らを弁護する不良弁護士までいる。これが高等動物「ヒト」の、彼ら曰わく「時代の変化にあう進化」あるいは現代の正しい立ち居振いらしい。完全に人間でいること諦めている。
もう捕まえてしまえ。もはや習律とは呼んでやれないただの習俗を、政治を用いて強要しているだけではないか。これを革命などとは、私は絶対に認めない。そもそも、こんな体育会系の運動など無用である。残念ながら、彼らの窺い知れないところでのみ「革命」はゆっくりながらもちゃんと進んでいる。というより、それは必然にやってくると言い換えた方がよい。本当にあの政党には意味がない。無駄という言葉が本当にふさわしい。彼らは、柔軟な発想で次々と言葉を生み出す「ギャル」でさえ、いやそんなギャルだからこそ心得ている数理的で論理的な言語能力すらがない。彼らの残す記録を翻訳するのは重労働である。その内容は、未知の流行で自慰をしているのみで、それをなぜか恥としか認知できない我々に見せつけるという、まことに悪手の趣味なのである。ストリーキングのような、やはり精神のどこかがぶっ壊れているような、そんな印象だけを残すものなのだ。ただ、此度、私はその役を降ろさせていただく。というのも、彼自身が革命家をハッキリと名乗り、テロの旗を揚げたためである。警報装置としての私はもう必要ないからである。後始末は、かの党に血税を無駄に使わせたみなさん日本国民にやっていただきます。ちなみに私が憤怒に耐えるために私が自分にかけざるを得なかった費用のすべては、傍観されていたみなさんにお支払いいただきます。必ずです。もろもろの賠償も含めて必ずもらい受けます。テロをアジテートする手法が、楽曲販売だろうが、漫談講演だろうが、映画配信だろうが、YouTube動画だろうが、その種は問わない。まったくの偶然であっても、群衆の心にテロリズムを育てたことに疑いようのない罪がある。しかし、警察界隈、精神保健界隈にとっては課題の大きさをアピールできる機会となった。それを酌量してやることができる今、彼を保護するには絶好の千載一遇の機会である。ここでやらねば我々に非が回ってきてしまう。
12.19HATASHIAIついてお詫びとご報告youtu.beとにかく気持ち悪い。考える前に身体が動く奴って、ハッキリ言ってアホやからな?自分がアホなこと気づかんなんて、バカやぞ?それが放置される世界なんてどこにもないんで?勘違いすなよボケが。ほんまにお前ら要らんわ。大量に人を殺す前に早く自分から消えてくれ。
貸していた代車が壊れて帰ってきた。飲酒運転の常習者らしい客の、それっぽい運命に染まった我が子のごとき可愛い代車。当然、客は気付いていない。タービンの焼き付きと思われ、明らかなパワーダウン。バカとは、こんなにも激しい故障にも気付かないのである。憎しみしかない。もし、タービンの羽がエンジン自体を強制的に破壊し、この酔っ払いをパニックにさせたら、きっと人が死んだだろう。こんな悪魔がゴロゴロいる世の中で、私はニコニコ赦してられない。ブッダの教えであってもそんなものは守らない。憎いものは憎い。まして、これが某地銀の支店長である。呂律が回らないほどなのに今日は飲んでないと宣うのは勝手だが、それで他人様の車を運転してくるなんて狂気の沙汰である。というか、単純に殺したい。間違いなく悪魔だからだ。勝手に神殿くれるのが一番だが。
理念なき政治(Politics without Principle)労働なき富(Wealth without Work)良心なき快楽(Pleasure without Conscience)人格なき学識(Knowledge without Character)道徳なき商業(Commerce without Morality)人間性なき科学(Science without Humanity)献身なき信仰(Worship without Sacrifice)
ただでさえ難解なホルクハイマーを前に、今日もドMな挑戦心がなぜだか急に湧き上がる。私は、これを毎日のように繰り返す。きっと、クソを絞り出すときに力むことがなにかのサインになるのだろうか。でなければ、おそらくは、不景気や少子化のメカニズムなんてさすがにもう誰でも知っているだろうと信じようとする私を咎めるためにそうしている。きっとこういうふざけた反省さえもしなくなった時、おそらく日本は本当の地獄に変わっている。というか、その頃、日本は日本ではなくなっている。その日がじわりじわりと迫ってきているのを感じているのだから、少しくらいはジタバタさせてほしい。細胞が自分自身の健全な複写をするための能力を失ったときと同じにはならず、潔く向こうへ逝くのでそうさせてほしい。そう、我々が死なないためには、決して健全な細胞には生まれ変わらないその細胞を取り除くか、隔離しておくしかない。昔はそれを「腐ったミカン」なんて喩えて叱ったり、あらかじめ啓蒙することができたのだが、今はその意味をゆっくり考える時間が、そのミカンには無いのだそうだ。何だか知らないが、なぜか威張って「無い」とか「無駄だ」と言うのだが、無いのは君たちの智慧だとしか認められない。そのうえ、実際の社会には、腐ったミカンのための生き場所が減るどころか増えてしまって、無駄なわけがないだろうと言うしかない。それを認識している人がどれほどいるのか判らないが、確実にミカンは分裂している。外皮で覆われていたから、まさかそれが内から始まっていることだと知って驚いた。たしかに、ゆっくり考えていている暇も、方法もないようである。もはや同種戦争になっていた。心配事のない平和な人類界を本当に目指すのなら、その志が正常に複写される仕組みがあって、かつ機能していなければならない。ミスコピーした設計図(遺伝情報)で複製されていく癌細胞の、つまり他部族を侵すような考えのたったの一つも見逃さないことに尽きるのである。ところが、それぞれで生きようとやってしまった。都市化に反対しない人がこれほど多いのも、都市化にはとてつもない問題があるという情報を複写しなかった細胞の仕業としか捉えられない。どちらが本当のミカンかと争い始めるだろう。たとえば財務省が進めたい増税や緊縮財政策と、MMT論者などが期待する減税や公債発行策の対峙は、こういう理由で起きている。どちらかが間抜けでバカで勉強不足という話ではない。そういう次元ではないということを理解しない間抜けとバカがいるから、どっちを採っても革命であり、ギャンブルにしかならないということがマズイ。新興政党が「マイ憲法」を論法の支えにして公共放送と戦っていることも忘れてはならない。これから予防したり、まだ防げるという話ではなく、もう始まって久しいのである。今のはN国への批判でもあるのだが、現に、あのような身勝手な「マイ憲法」があちこちで散見できるようになった。その予言をした者は私だけではない。いや、私には予言者のつもりでいた記憶はない。文科理科問わず、世界中の学者が、熨斗を付けてわざわざ目立つようにその注意書きを立てかけた作法に準じて、同じことをしてきただけである。それと同じものを観たはずの大勢が、第三の振る舞いをして、まるで目の前に痴漢が来るまで鳥肌の一つも立てずにいた女性のごとくであるのが、とても不思議で納得しがたい。それとも、私より大勢の方が大和人なのだろうか。わざと不景気にして、わざと隣人トラブルを起こして、わざと不幸になるなんて、連合軍が信じていたところのクレイジージャップでしかない。たまにだったらそんな冗談も笑ってやれるが、こう頻繁にやられるとそうはいかない。不幸の花が咲いたと言うから慰めてやっても挨拶ナシ。代わりに幸せの種を撒いてやれば色が悪いだの匂いが嫌いだのと咲いた花を踏みつぶした。なんというか、まるでファイナルファンタジーの中にいるバカで意地悪な魔法使いのようである。いないか。自覚はないだろうが、いわゆる庶民がやってきたのはこういうことである。どんなに願っても平和とドラえもんは作れない。アリの巣を研究させた小学校ではそれを習わせたはずだが、ここまでバカだと、やはり知識人の罪は大きい。ただ、こちらにも言い分がある。なんでも自分で調べると言ったのも、ちゃんと解ってると言ったのも、その庶民だ。最近では「あんたに関係ない!」と怒鳴られれるのだから、こちらは理解したものだと思ってしまう。確かめようとすればモラハラで、そっとしすぎるとパワハラ。どうしたら良かったのか。要するに、やはり「大嘘つき」だったというオチなのだ。アニメ鬼滅の刃が大ヒット満員御礼だそうだが、日本神道では難しくて仏教ではややこしいと言った日本人の誰があの作品の論理を理解するのだ。スターウォーズを観ても、エヴァンゲリオンでもトゥモローランドでも、DBSPでも気が付かなかった人たちが、鬼滅を理解するだろうか。そして、今は曲解するレビューが誰からの咎めも受けない。制作者でもやたらには発言できない。だから、恥の「は」の字も見られない誰かが、とめどなく誤謬を敷衍させていくのである。言わずもがな、それに何年もかからない。わずかに何日かあれば新しい神が生まれる。そして、その新しい概念や解釈を正しいとする信仰が生まれるのである。それは、あたかも新細胞が無表情でなんらの躊躇もせずに遺伝子をコピーしていく理不尽な様子と同じである。ただただ、それが「正しい遺伝情報」だから無表情なのであり、あの人間をドン引きさせる「自信」の理由なのである。そうそう、どこかの教祖や、どこかの党首がそれを体現しているのを忘れていた。まさにあれである。彼らはトリガーをひいてしまった。
遅れ馳せながらではあるがPS5が発売されるということで、買いはしないもののゲームファンである私も、その日を待ち望んでいる皆さんと一緒に喜びを分かち合いたい。8K規格に対応するというこで、PS5の予約と同時に8K対応テレビの注文も増えたと聞いている。私はNHKの回し者ではないが、対応テレビを買ったのであれば、スーパーハイビジョン放送を観ないというわけにはいかないだろう。さて、8Kといえば、NHKが4K/8K衛生放送を開始してから早二年。当たり前のことだが、その技術は、開発に携わった実に多くの研究者が何年も苦悩して生み出したものだ。それに、放送行政や通信行政の整備に東奔西走した人々のご苦労も計り知れない。もちろんそのお陰あってNHK技研に費やされた我々の投資が、こうやってすばらしい結果となって帰ってきたということである。ある人に言わせると反社会勢力かもしれないというNHKであるが、そのNHKを改革するためには、かくして「せめて」放送行政と通信行政の両方を説得できる人物が必要で、もしいるとした場合にのみ成功する。そもそも放送電波の返上はすでに企図されているのであって、その壮大な国際的未来予想図を書き換えるのはほとんど無理だ。それには世界を跪かせるほどの神器の発明が必要だ。言わずもがな、それは、非論理的な言動で無秩序を作っては自傷他害を楽しむあの御仁の手のひらにはない。未来が見えないのは仕方がないが、見えてはいけないものが見えるのはどう考えてもマズイ。お疲れなのだろうが、毎日のように日付を間違える彼の最近には憐れみを感じる。仮性認知症と言われかねないほど可哀想だ。どうして党員はそれを放置するイジメを続けるのだろうか。党是だからか。そんなことより、フルハイビジョン2Kは200万画素、4Kが830万画素、8Kは3300万画素、多くの方が使っているPCモニターは2Kである。大体10年で16倍の成長を遂げたのもすごいが、通信技術はその比ではない。IPv6は、ほぼ無限のプロトコル翻訳を可能にした。IPv4を太陽系とするなら、これは銀河団だ。事実上無限にIP構成できることを意味する。これで世界中のデバイスを全部繋げることが可能だ。そういえば「選挙は点で政治は線」だなんてことを最近誰かが言っていた。何百年も前に遊ばれた言葉が今に蘇ったことが、私たちをなんとも不安にさせるではないか。そんなものは当たり前である。あんな言葉でうっとりしている人にとって先人とはなんだ。人智とは、智慧とはなんなんだ。私は、こういうのが嫌だったのである。当たりどころのない怒りを持たされることが嫌だったのだよ。5Gは、その種を見つけてくれるシステムだ。そう、神器なのだよ。いや、本当にそうだろうか。本当に間に合うだろうか。本当に、この地獄にいるような気持ちに耐える価値があるのだろうか。その次の世界が本当にあるのだろうか。・・・あくまでも数学的な予知ですが、あたしにはそうは思えません。「こんな戦争あったの?」っていう戦争を始めている気がするのです。というか始まってるし。
何年前だったか、贋作文化典というのを見に行った。会場に辿り着くまでは、コピー商品やそれを作ったアホなヤツもしくは国の、間抜けっぷりが拝めるのだと邪に思っていたら、そうではなかった。贋作はたしかに文化だったのだ。贋作は人の眼を欺くものでもあるが、人が論理を求めるプロセスには当然存在するものだったのだ。私のこの理解を不思議と思う人は、パクリという言葉を専ら「侮蔑」のために使っているはずで、ものづくりの作法も苦しみも知らない人であろう。幸い私は科学者であり技術系の畑にいることで、「論理」にしか目が向かない。いくつもない論理を意識しないわけにはいかず、エンゲルスを読んだ後の気持ちやデューリングに感心したときの気持ちを、ただの電気信号だと捉えることが出来る。進化論と遺伝論が衝突することもなく、量子論と相対論の仲違いだって起きない。例え起きてもそんなことでは鬱にならない。それより、変えようがないものを変えようと頑張る人を見て背筋が凍る。戦争前夜を確信するからである。善悪は別として、「論理」とは専らが常にオンリーワンである。その憧れへの表象が「似る」もしくは「そっくり」になることのなにがおかしいのかと、これはどうしても言わなければならない。お隣さんと一緒の外壁が嫌だから、少し見栄を張って変わった色のガルバリウム鋼板にしたいという妻の願いは叶えてやれても、四角いタイヤを履いたフェラーリを買えば、お隣の丸いタイヤを履いたランボルギーニに速さで勝てるのではないかという願いは叶わない。それが論理なのである。コロナがただの風邪でもインフルエンザ級の禍いだとしても、それを面倒で不快だと思わない人を増やしてはいけない。もちろん、私はこの先増えそうだからこう言っている。マスクをするのは人権の初歩の初歩でもある。それさえも理解できないバカがあぶり出されているというのに、あえて手を挙げるなら意味を解ってやる必要はない。50年、100年の単位でしか文化は変えられないことを知っている人類は、たしかに何度かそうやって間違えたが、もう間違えられない。拝金主義は、70年代に都市部を制圧したことを契機に、50年かけてついに日本全土を席巻した。この認識が間違っているのならば「少子化社会」や「超高齢化社会」は止められたはずで、努力の痕も確認できるはずだが、ない。どこかにその絶対的例外となる集落があるというのならその認識を改めるが、ない。大阪都構想やスマートシティというベクトルだって、日本人がマスメディアに騙されず真贋を見抜いていれば生まれなかったし、これほど反対されなかったのである。頭の悪い大卒が「新しい=正しい」と吹聴して回ったために、洗脳されやすい女性が増えた。お陰で私などは、結納金まで含めると5百万を一括で払う羽目になった。地方でもこのくらいは当たり前だった。田舎でこれはどう考えてもおかしいのである。親を棄てる子が育ち、人間から自然を切り離す学者がのさばり、混乱した人々を囲って飼うだけのビジネスが隆盛したおかしな時代。マスメディアはその醜さを伝える仕事を放棄した。だから、お陰で政治家の仕事が増した。それを信じる庶民は、生意気な小僧の面倒を看られなくなったことを社会のせいにした。性は軽んじられ、命も、時間までもが軽んじられた。いろいろな垣根が外され、個性は爆発して暴走した。一旦始まったそれは止まるわけがなく、止まらない理由を考えることまで放棄したのである。そこから久しく30年が経っている。暴走族がいなくなったらギャングが増え、ヤクザがいなくなったらもっと酷いのが出てきた。不器用なヤツラばかりになって、もうどうしようもなくなった。その手本となる米国が未だに覇権を握っているからって、どうして従う必要があるのか。先にも言ったが、これは人類代問題なのである。すぐに滅亡というわけではないとは言ったって、時間を浪費する文明を盲目に推し進め、改める気配がない米国が正義である証拠などない。原理主義を刈り取りに行くぞと勇んで出発する者が持っていくのが、必ずと言ってよいほど「原理主義」という刃物である。鎌も使えない連中に刈払い機をプレゼントすることが「善」であるかは甚だ疑問なのである。YouTuberという新しい人種が日ごろやっているのは、もはや完全に近いオナニーであって、米国と同じ利己行動である。本人たちは広告屋のつもりでいて、社会活動家ぐらいにも思っているのだろうが、大間違いである。今、一番いらないのはその「商業家」なのである。商業家が吸血鬼だからである。商業家など単なる媒介である。舌と口さえあれば食える時代ではないのだから悪あがきもするだろうが、sars-co-2と同じで迷惑なのは同じ。試しに喧嘩を売ってみればそれが判る。敵は人間ではないそういう状況なのに、なぜか普段より人間が人間を殺している。そんな不安な気持ちを共有したいのに、なぜかそのための広告が、ウイルスの味方をしている。「マスクするの?しないの?」。この判断さえできないのが、情報を伝達するだけで儲けている商業家である。私は思う。人と人の間にはこんなにも多くのヒビが入っていたんだなと。まるで世界は巨大なオランダの涙。同じ屈折率のエーテルのようなものがあったから、同じに見えた。繋がって観えた。でも、確実に違う。ゆっくりだから判らなかったが、ゆっくりだから判らないが、今は爆破しながら粉々に砕けている最中なのだ。
さて、たった三分の動画の中で、この人はいくつの矛盾を言うでしょうか。
申し訳ないが、私は科学的に観測結果をご報告している。丸山の隣でバカ笑いする立花が気持ち悪いと言うのも、そうだからだ。単純に私の生理を狂わせるだけのことなど言わないのである。丸山はカメラに向かって「離れませんからね」と笑った。それを立花が勘違いして喜んでいるという構図。一人称視点のみで生きてきた人々が集まるN国界隈なら、これが不自然ではない。これが、日本人の大問題だと提起しているのである。彼らがああやって無邪気にディジタルに操られていられるのは、無段階に彼らを見張るための私たち最先端のアナロジストがいるからだ。よい機会だから彼らが何者かを教えておこう。彼らは誰かと重なり合う瞬間のことだけを覚えている。しかし、私たちからすればほとんどの時間、彼らとは縁がない。その必要性がない。合理的でもない。なのに、構ってくれとか、構わないでくれとか、五月蝿い奴らなのである。間違いなくその振る舞いは量子論を知る人間のものではない。つまり、常に興味と驚きの眼を腐らせない人々にとってN国は邪魔でしかない。学問を諦める気なら絶対に赦さないと、何回も言ったはずだが。こちらには、君たちを阻害するための理由がすでにある。世界的にそれは知られている。N国界隈の人々にはそれが見えないだけなのだ。これは、どうにもならない。悪しからず。
これが、侍の国にある公党なのだ。これが国会議員かと思うと、また死にたくなる。いくつ命があっても足りやしない。N国党内では知能指数が高いはずの浜田も外に出ればあの程度だということを、支持者も大概に理解しないといけない。私は動画のタイトル見て愕然とした。さしちがえる覚悟のことなど今になって人前で口にしてはいけない。あれを観てびっくりして死ぬ人がいてもおかしくない。ぬるま湯で育つからこういうことになる。騎士道ではどう扱われるのか知らないが、武士道では、浜田の振る舞いは独善的ととられる。生き残ろうと浅ましく生きる者と見なされるのである。作法も礼儀も知らない不届き者でしかない。これでは真っ先に叩き斬られる側だ。NHKをぶっ壊すことで新たに生まれる悲しみのことや、ぶっ壊すことで必ずや生まれる新しい争いのことを、よく想像できているのなら絶対に言わないことを浜田たちはわざわざ記録に残しているのだ。原始的なところからして間違っている。なにかおかしい。確かにおかしい。知識も知恵もない。人間の匂いがしない。虎とも違うようだ。それから、念のために言っておくが、麻生太郎は浜田のことなどなんとも思っていない。麻生だけではない。新人だろうが敵だろうが警戒もなく近付いていくのが麻生太郎というだけだ。それをなにかのサインと勘違いしている立花や浜田がいる可能性もあるが、もしそうなら完全な勘違いだと誰か進言してやってほしい。狩人はそういうものだと。
ある宗教に入信している三十代の女性と、タイムマシンは存在し得るか否かという話をしたことがある。そして、その彼女は、教祖の言い分を信じているとしてその存在を肯定していた。どのような教義を受けたのかは知らないが、確実に思考実験の結論としか考えられない内容を私は聞かされ、科学者の端くれとしてとても困った。なぜ電子レンジに突っ込んだだけで冷たいごはんに湯気が沸くのかも知らない人に、教祖を疑っているのかと怒られ困り果てたのである。我々は、まだ亜光速で移動する段階にはいない。そろそろそういう時期だというのであれば、私もタイムマシーンの開発に執着するかもしれない。ただし、その研究はきっと数千年もかかると思われ、その数千年を無下にする可能性もある。そもそもこんなわがままな人類の欲求を宇宙が許すはずがない。宇宙神の化身だと宣うというこの教祖の脇腹がこんなに緩いとは思っていなくて驚いた記憶がある。人間を疑う癖にまた感謝する機会になってしまったのだ。ジャパンライフ元会長ら逮捕という報道でこれを思い出したのである。儲け話や新興宗教というもののすべてが詐欺とは言わないが、概ねそうであるということをどうして人間は忘れるのだろうと改めて考えさせられる。私は米国のマーケティング論を学んだ時に、初めて日本人の騙しやすさに気が付いた。もちろん、自身の呪縛されてきた事実にも気が付いたのである。広告に支配されてしまった世界を憂いで、あるいは憎むのは、私にとって自然のことなのだ。こうなると、おそらく誰も脱出できない。ブラックホールが突然消えてなくなり、事象の地平線が消滅するというような奇跡が起こらなければ彼らは救われない。騙す方も騙される方もなくならないのである。それは、もうこうなると、騙しているということにも、騙されているということにも気付けないからなのである。当然、正義は公の為ならず私の為に存在するようになり、美醜もなくなり、善悪の境界もなくなる。もう一歩でそこへたどり着きそうなのが我々なのである。
どうして我々が立花孝志に執着するかというと、かねてから云われているインターネットの功罪というものを、立花がもっとも代表的に示し続けるからである。それ以外に理由はない。立花は、インターネットを使って人間を大量に殺す、初めての人間と化けかねない。ただし、我々が観測を続けてさえいればそれは避けられるだろう。むしろ、頼まれても止めることができない。これ以上、憤死する人間を増やすことは許さない。このまま国家の、いや人類の終わりを迎える気など拙者にもないのである。そのためには常時、先述の輩連中から目を離さない徹底した観測が必要なのである。しかし、これが立花や平塚などの文系には絶対に理解できない。そして、そのバイアスが世界中にその網を張り巡らせていく。
もう周知の通りですが、このようになにも知らない人が永田町にいるわけです。この段階で国政をお任せすることが出来ません。記憶力だけでやってきたことがまたバレましたね。もう一回言いますけど、永田町にいるなら今更こんなことに驚いて面白がっていてはいけないのです。こんなの「原論」ですよ。基本。既出。それを知っている人が、「足手まとい、血税の無駄遣い、ままごと、気持ち悪いひとたち、ただのパフォーマンス・・・」、などなど、無視されることなく言われてますね?。ありがたいですね。でも、これが誹謗中傷?どれも的確なのに?こんな時になにをしているのですか?何を観て育ったのですか。NHKの前に日本が壊されそうなのに。
プラスチックばかりに頼っている現代人には、「箍」というものの存在がほとんど知られていない。長い伝統のある老舗温泉旅館にでも行かないと箍で組まれた桶など観ることはないのだ。いや、観たところで、それはデザインとしか認知されない。だから「多様」なんて言葉が悪戯に議論され、倫理などの話も的が外れて一向に収まらないのである。これは30年前の話である。今となっては、いわゆる「道理」が社会全体で語られることはない。以前、私はそれを「マイ憲法時代」と言ったのだが、どうやらもうこんな表現では揶揄しきれていないようだ。「いろんな人がいるね」「なんだか変な時代だね」と皆が言う。そうじゃない時代なんてなかったのに、なにをいまさらと思う。まあ、たしかに型に嵌められているような気になっている人は今でも多く、視界を失っている不自由さを嘆く人は多い。可能性を奪われていたり、搾取されたり、あるいは奴隷のように生きることへ「不快感」を持ってみることはとても健全であるとは思うが、一番の問題は、それを言い放したとたんにすぐに自分のことにご執心なところである。要するに、もう箍が外れているのである。何枚かの桶側が箍で固定されたのが桶である。桶側の一枚それぞれが、隣り合うものと仲違いするのでは水を汲むという目的に支障が出る。見習いがこさえた桶が桶匠の師によって壊されるのは、形状が少しくらい合わなくとも、箍で締め付けさえすれば桶側を密着させられると思ったからである。水を汲むという使命だけが果たせれば良いならそれでも構わないのだが、普通、桶は長く使いたいものに決まっている。少しの隙間も作らないことが桶を腐らせず衛生的に使うための必須条件なのだから、当然叱られる。現代人は、その使命が想像できない。「自分」という桶側は、決して匠の思うようにはならない。させない。絆だの団結だの、あるいは民度が高いだなどと自惚れて興奮してはいるが、どうみても隙間だらけの桶である。その隙が自らを早く腐らせ、箍の縛りなど関係なくボロリと脱落する。そして、それに気付いていない。「まだ桶にはなっていない桶側」という幼い生き方を、なぜか自立と呼んでもみる。そして、そのために社会や公共が必要だと言っている。とんでもない誤解である。それでは社会も公共もない。科学畑にいる人間は、遅かれ早かれ「量子論」に触れなければならない時代。だから、リタイヤする者が大量に生まれた。そこには、文系の人間が一生をかけて後悔しなければならないようなことがある。文系人にしか思い描けない未来のことへの理解を拒んだ科学者が、原子力爆弾を作ったことを忘れてはいけない。人類が「いつまでも隙間だらけの桶」ならば、またそうなるのである。その桶にある使命が、たとえ「平和」や「幸福」を汲み取っていくことでも、隙間だらけでは果たせないのである。箍があれば桶側がまとまるのではない。まとまり得る桶側が揃ったときに箍が必要なのである。桶を作ったから汲み取りたいものがちょうどよく生まれるのではない。汲み取りたいものがあり、その対象をよく知ってからでないと桶は作れない。そもそも桶側と箍にある力学を理解しないうちは、見習いの職人には桶が作れない。これは現代人のことである。つまり、今の人類に社会も政治もない。衝突することは必然で、争うことは必至で、今のところその「上手い後始末」のことを改革と呼んでいるだけなのである。バカだ。