教養だとか知性だとかが蓄えられる前に、普通、人は「経験」を重ねる。時に褒められ、時に怒られ、時にそれは快感で、時に不快感なものである。そういうものを認知すればするほど、どういう風に自分を制御すれば良いのかと、脳は「重層的」に次々と新しい思考回路を紡ぎあげていく。この変化を「成長」と呼ぶのである。自己改革と言っても良いだろう。

 

「重層的」を強調したのは、有名な「腫瘍の問題」を思い出し、それが、いわゆる「知能」の分水嶺に例えられるように、「認識」とか「認知」というものが平面的であったり、二次元的でしかないのでは、「人足りる」と言い難い時代に入っているからである。これから押し寄せる時代に必要な「次の知性」の在り方を話さない改革なら、誰がそれを進めても「差別」を助長すると訴えたい。

 

「腫瘍の問題」は、xy軸しかない平面を描く数学では解けない。新たにy軸を設け、それを正確に空間認識として捉えている限りにおいて解ける問題なのである。いわゆるコンピュータ知識の水準が上がり平準化すれば支障がないという単純な話ではない。そのくらいの数学脳や空間認識ならばもうあるし、すぐに体得できると侮る人が多いのである。

 

もちろんこれが難しいから、人類の文明に陰りが見えているのである。私には「バカをバカにする悪趣味」があるが、実はこれが健全なのである。人間はもれなくバカだからである。想像はできるのに実現できず、後悔を抱いて死んでいくものだ。言い訳がましいが、私はこの人類共通の悪趣味を称えているだけなのである。いやいや、閑話休題。

 

焼いてはいけない細胞を完璧に避けるレーザーや、瞬時に認知症を治すナノマシンや、好きなように能力を上げる魔法の薬の開発は、たしかに魅力的で実用的と思われる。しかし、我々は一体なにを犠牲にしてそれを手に入れるだろうか。残念なことに、夢想家の描く未来は来ない。むしろ予想よりも「すばらしい今」を迎えることだろうが、おそらく勘違いである。

 

ロマンを咎めるつもりはない。しかし、バカ正直に考えると、これが、サイエンスファンタジーと現実の区別がつかない人を無くそうとしているということに気付く。しかし、我々にはその際に起きる事象が想像できない。これが思いのほか危険な核兵器開発以来と言えそうな命題であることに気付くのである。