よく事情が解らないという人には、文科系と理科系の戦争に感じたり、宗教家と科学者の戦争に見えるかもしれないが、間違いなくこれは単純に知性と反知性とで保ってきた秩序の崩壊のことについて言っている。その時代に生きていた人がいないことが悔やまれるが、しかし、我々は記録の上ではおよそ20の文明のほとんどを自ら壊してきた。その原因が、知性と反知性の秩序が壊れたことだと結論付けることが、多くの人の頷きを観ることのできる最もスマートな答えなのである。

 

さて、我々はまず、壮大な勘違いを改めなければならない。例えば、「神」を理解した気分でいたことや、一方で無視してきたことである。そして、「科学」を普遍的な善と思い込んでいたことであり、いかなるときも制御可能な力だと信じているところである。我々に望まれる態度はこうである。「既知のものを科学と呼ぶしかなく、未知のものを神と呼ぶしかない。」。しかし、今言ったことを諭すはずの知識人、文化人と呼ばれて久しい者の大半がこれを心得ていない。

 

要するに、我々には今、このヒステリアを鎮めてくれる「父」がおらず、「手本」もないのである。これは「無」を嘆いているのではなく、それらを認知できない低い知性を揶揄しており、それを否定する似非学問を狂信する者が自ら首を絞める現状を揶揄するものだ。我々の目に映るのは、いつだって論理だけであり、我々が出来ることはもう決まっている。可能な限り多くの人々が「幸せだ」と言うはずの、既知の知恵を正確に思い出し、最大の再現を期すために正確にトレースすることのみなのである。

 

言わずもがなであるが、それが出来そうもないことが本当の危機である。私は、世界中の国々がそれぞれの文化を棄てることを促しているのではない。「これまで出来ていたことが出来なくなってはいまいか」と、問うているのである。あくまでもそうではないと言うのであれば、人類はまた「欲望」のせいで、ゲーム理論の反省も忘れた自惚れや奢りをエネルギーにした戦いを覚悟しなければならない。そして、勝者は、その謬ちを名誉として語り継いでいくしかない。人が生きる場所があればだが。