自分を愛するということ。
それは自分の弱さを認め、受け入れると言うこと。
自己卑下していた部分を赦し、自分の影に光をあてること。

自分が自分を認めなければ、一体誰が認めるのでしょう。
他者にそれを求めても、同情の言葉は貰えても自分の心は癒されません。
思考が癒されたという気分になっただけなのです。

自分の弱さを認め、嫌いだった部分を受け入れた時
ハートの中から自分の愛が湧きあがります。

それが出来ないうちはただ、人に愛を求め執着してしまうのです。

誰かを愛するということは、自分の内側から溢れた愛を相手にただ与えるだけでいいのです。
そこには執着も欲求も存在しません。
何も求めずただ溢れた愛を与えるのだから、自分が傷つくこともありません。

それには先ず自分のハートを自分の愛で満たす必要があります。


人は絶えずなにかを満たそうとするとき外側に答えを求めます。
見返りを求めてしまうのです。
足りないもの同士が満たしあおうとすれば、それは愛の奪い合いです。
いつまでも満たされることはなく、寂しさと不満だけが膨らんでしまいます。


自分の内から溢れた愛は、自分だけでなく他者をも潤します。
溢れ出た愛は温かく、慈愛に満ちていて、何の束縛もなく自由です。
そういう愛に触れた時、人は初めて愛されていることを感じるのです。


Crystal breath

        ベニバナの花言葉は「愛する力」ですよ。

Crystal breath-ぐりーんはーと


OSHOは言います。

愛は霊的な体験だ。
セックスとはなんのかかわりもなく、もっとも奥深い存在とかかわっている。
だが、あなたは自らの寺院に入ったこともない。
自分のことさえ知らないのに、愛のことをたずねている。
まず、自分自身でありなさい。そうすれば、愛はその報いとしてやって来る。』


自らの寺院とは、自分のハートの中にある自分の愛そのものです。
もっとも奥深い存在とは、そのハートの中にいる本当の自分の姿であり
この宇宙を創造した神でもあります。

本当の自分の姿すらまだ見つけていないのに、
他者に愛を求めても何も手に入らないよとOSHOは言っていますね。

自分自身であること。

自分を赦し認め受け入れて、自分という存在を意識すること。
そうすれば自ずと自分の中に愛は溢れていくのです。

愛は呼吸のように自然で、水の流れのようにハートから溢れていきます。
本当の愛は決して尽きることはなく、何も求めることはなく
ただその溢れた愛を与え続けるだけなのです。

私達の内側にある愛は、想像してるよりももっと大きく温かで輝いています。
そこに優劣は存在しません。
どんな人であれ、素晴らしい愛を内側に秘めています。

あなたの持っている愛を、輝かせてくださいね。




虹あなたのハートに愛と光を虹
愛を語るのにもう一人、仏陀がいます。

仏陀は「愛」を我欲や愛執(愛するものに心がとらわれて離れられないこと)だと考えます。

聖書の「愛」とは違う感じがしますね。

仏陀は言います。

「愛する人に会ってはいけません。
会うことによって愛情、快楽、欲情という憂いが生じ、それはやがて恐れを生じる」

「愛欲に駆り立てられた人は愛欲の林から出ていながら 
また愛欲の林に身をゆだね また愛欲の林に向かい走る」 

「束縛から解き離されたのに また束縛に向かい走っていく」


ダンマパダ~真理の言葉より~

尽く愛を否定してるかのように見えますが、そうではないのです。

この世の全ては移りゆくものです。
自分の心や他者の心でさえも月日と共に変化します。
それを理解できない者は対象を所有しようとするのです。
物も人の心でさえも。

そしてそれが叶わない時、憎しみや恨み同情を求め、更なる愛情を求めるのです。
これは「自分を愛してるから」なのだよと言いたいのです。
私達が本当に愛してるのは、他者でもなく物でもない「自分」だよと。

自分を愛してるのだから、自分がされたら嫌な様に、
他者を束縛してはいけませんよと言いたいのです。

全ての愛は奪ったり勝ちとったりするものでなく、
見返りを求めず与えるものなのだと言いたいのです。


どうでしょう?聖書の記述に通じるものがありますよね。

これは愛の真理は「無償の愛」だよと言っているのです。

Crystal breath

      アイビーゼラニウムの花言葉は「真実の愛情」だそうですよ。

Crystal breath-ライン


「愛してる?」と自分の恋人やパートナーに聞いた経験や、
自分から「愛してる」と言った経験は誰でも一度くらいありますね。

こういった言葉は相手に思いを告げたり、確認したりなのですが
それも全て自分を愛しているがゆえに「愛されていなかったら」という恐れの感情から
発せられる言葉です。

自分はこれほど相手を思っているのにという気持ちが見返りを求めてしまうのです。

これでは無償の愛とは言えません。


『愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け入れることだ』

イタリアの劇作家・ディエゴ・ファブリ

自分の意のままに相手をコントロールしたいと思う心は
ありのままに相手を受け入れているとは言えません。
相手に対する欲求が大きければ大きいほど、不満は募り、心配し、変化を求めてしまいます。

それは自分の心が満たされていないから。
相手から得る愛情ではなく、自分が自分を愛していないから他者に求めてしまうのです。


ハートは愛の器です。
その器を他者からの愛で埋めようとしても、それは満たされることはありません。
自分の愛で満たすしかないのです。

自分を愛していれば、他者への欲求はなくなります。
相手に変化を求めないので、ありのままの相手を受け入れることが出来るのです。

自分がここに存在しているのと同じように、
相手もただそこに存在することが喜びであり幸せであると思えるようになるのです。




音譜あなたのハートに愛と光を音譜
人は誰かを愛します。そして誰かに愛されたいと願います。

愛は恋とは違います。

恋という字は、亦に心がついています。
この恋という字は旧字では、戀という文字を書きます。
糸の間に音があることから、糸が絡んでもつれる様に音が出ない
その下に心がくるので、「心が乱れる」という意味があります。

愛と言う字は、由来が沢山あります。
元になる文字は「旡+心」。
旡はいっぱいであるという意味があり、心が一杯になるという意味だという説。

もう一つは、古代文字が「髪が後ろに引かれ、心に蓋があり足に棒が絡まって歩けない様子」
を組み合わせています。
つまり、心が思うように動けない状態=切ない感じです。

恋は自分を見失ってしまう意味合いがありますね。
愛は自分の心が思うようにいかない切なさですね。

これは恋や愛の様子を漢字にしたから。
では本来の「愛」ってなんでしょう?

愛と一言でいっても、男女の愛、親子の愛、人間愛、
動物への愛、信仰の愛と様々です。

その時々で表現方法は大きくかわります。

男女の愛は互いを求め、親子の愛は無条件に注がれ、他者への愛は信頼を生み、
動物への愛は慈しみの心を持ち、信仰の愛は奉仕する心を育てます。


どれが本物の愛か解りますか?



Crystal breath

          青いバラの花言葉は「神の祝福」だそうですよ

Crystal breath-ぶるーはーと



西洋では、愛を表す言葉の一つに「Agape(アガペー)」という言葉があります。
これはギリシア語で「無償の愛・無限の愛」という意味です。
古代ギリシアでは「真の愛」という意味でした。
また、キリスト教で人間に対する神の愛を表す言葉でもあります。

真の愛・神の愛ってどういうものか。
それは、世界中の言葉を使っても説明出来ないのが本当の所です。

敢えて言葉を使うなら、聖書にこういう記述があります。

愛は寛容にして慈愛であり。
愛は妬まず、愛は誇らず、驕(おご)らず、非礼を行わず、
己の利を求めず、憤らず、人の悪を想わず。


『新約聖書』-コリント十三章四節


私達が普段よく考える「愛」とは少々違うような気がしませんか?

人間が望む愛は、自分の満たされたいという思いや相手への欲求が出てきます。
だから自分が満たされていなければ不満になりますね。
そこで自分との葛藤や、相手との不和が起ることもあります。
これって、「己の利」を求めていますよね。


神は人間が行う全ての罪を赦しています。
それが証拠に、殺人を犯した人ですら生かされています。
罪人だ死刑だとするのは、人間が生きていく上で作ったルール(法律)を当てはめているだけです。
でも、神はそれすらも赦しています。
人には到底できませんよね。


神の愛は私達人間が考える以上に大きく、寛大なのです。

だから、世界中の言葉を使っても上手く説明できないのです。



ドキドキあなたのハートに愛と光をドキドキ