愛を語るのにもう一人、仏陀がいます。

仏陀は「愛」を我欲や愛執(愛するものに心がとらわれて離れられないこと)だと考えます。

聖書の「愛」とは違う感じがしますね。

仏陀は言います。

「愛する人に会ってはいけません。
会うことによって愛情、快楽、欲情という憂いが生じ、それはやがて恐れを生じる」

「愛欲に駆り立てられた人は愛欲の林から出ていながら 
また愛欲の林に身をゆだね また愛欲の林に向かい走る」 

「束縛から解き離されたのに また束縛に向かい走っていく」


ダンマパダ~真理の言葉より~

尽く愛を否定してるかのように見えますが、そうではないのです。

この世の全ては移りゆくものです。
自分の心や他者の心でさえも月日と共に変化します。
それを理解できない者は対象を所有しようとするのです。
物も人の心でさえも。

そしてそれが叶わない時、憎しみや恨み同情を求め、更なる愛情を求めるのです。
これは「自分を愛してるから」なのだよと言いたいのです。
私達が本当に愛してるのは、他者でもなく物でもない「自分」だよと。

自分を愛してるのだから、自分がされたら嫌な様に、
他者を束縛してはいけませんよと言いたいのです。

全ての愛は奪ったり勝ちとったりするものでなく、
見返りを求めず与えるものなのだと言いたいのです。


どうでしょう?聖書の記述に通じるものがありますよね。

これは愛の真理は「無償の愛」だよと言っているのです。

Crystal breath

      アイビーゼラニウムの花言葉は「真実の愛情」だそうですよ。

Crystal breath-ライン


「愛してる?」と自分の恋人やパートナーに聞いた経験や、
自分から「愛してる」と言った経験は誰でも一度くらいありますね。

こういった言葉は相手に思いを告げたり、確認したりなのですが
それも全て自分を愛しているがゆえに「愛されていなかったら」という恐れの感情から
発せられる言葉です。

自分はこれほど相手を思っているのにという気持ちが見返りを求めてしまうのです。

これでは無償の愛とは言えません。


『愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け入れることだ』

イタリアの劇作家・ディエゴ・ファブリ

自分の意のままに相手をコントロールしたいと思う心は
ありのままに相手を受け入れているとは言えません。
相手に対する欲求が大きければ大きいほど、不満は募り、心配し、変化を求めてしまいます。

それは自分の心が満たされていないから。
相手から得る愛情ではなく、自分が自分を愛していないから他者に求めてしまうのです。


ハートは愛の器です。
その器を他者からの愛で埋めようとしても、それは満たされることはありません。
自分の愛で満たすしかないのです。

自分を愛していれば、他者への欲求はなくなります。
相手に変化を求めないので、ありのままの相手を受け入れることが出来るのです。

自分がここに存在しているのと同じように、
相手もただそこに存在することが喜びであり幸せであると思えるようになるのです。




音譜あなたのハートに愛と光を音譜