「子供が受験だから合格するように祈ってて」
「明日の手術が成功するように祈るね」

普段私達はこんな感じで「祈る」という言葉を使います。
日本は仏教が主流なので、キリスト教のように祈る習慣はあまりなく
どちらかと言うと願かけの様な感じで祈りますね。

「祈り」と「願い」の違いは何でしょうか。

よくある勘違いは、思いが強くなって「願い」となり
「願い」が更に強くなって「祈り」になると感じる事です。

願いはその人の「思い」です。

祈りは「行為」そのものです。


「祈り」という言葉はとても宗教的に捉えられていますね。

「信仰がなければ祈りは届かない」と言われたりするので
世間一般にはそう聞こえるのかもしれません。

そもそも信仰という言葉の意味が、正しく理解されていない事から誤解が生まれています。

信仰と言うのは宗教的に神を奉ることではなく、
自分の心の内から湧きおこる神への信頼です。


誰かに強制されて神を信じる(フリをする)ものとは違います。

神への信頼…それは自分の内なる神、自分自身への信頼でもあると言えるでしょう。
神聖・仏性・真我、呼び名は様々ですが、全ては「愛」の別の表現です。
自分の内側にある「愛」を信頼すること、神の愛を信頼することを信仰と言うのです。

「信仰がなければ祈りは届かない」とは、
「愛がなければ祈りは届かない」ということなのです。

Crystal breath

            ブロワリアの花言葉は「祈り」
Crystal breath


何かを祈る時、「祈ってあげる(た)」という心では本当の祈りではありません。
これは単なる自己満足のエゴです。
その行為をする自分を主張したいだけなのです。


例えば誰かの健康を祈る時、その人が存在してくれる、健康でいてくれる事に対して
感謝の心があって初めて「祈る」という行為が現れるはずです。
そこに感謝の気持ちや愛はあっても、エゴは存在しませんよね。

ですが、「健康であってくれたら私は安心だから」という思いで祈っても、
これは愛では無くてエゴなのです。
自分の欲求(安心したい)というの為に祈っているのです。
「幸せだから」でも同じです。
それ(その人の健康)があることで「幸せになる」という条件なのです。

このエゴの部分は、表にある「健康であってほしい」の
裏側にあるので見落としやすく、また、認めたくない部分でもあります。


ほんとうの祈りは感謝の気持ちから生まれる

恐怖や欲望からでは決してない

ほんとうの祈りは真実への愛から起る


~OSHO~

真実の愛とは「無条件」です。
何の制約も制限もありません。
ただあるのは、感謝の気持ちだけなのです。

「願い」には条件が付きます。
だから願いは叶いにくいのです。
叶う時は、自分の意識がその現実を上手く創り出せた時なのです。

「祈り」には条件は付きません。
ほんとうの祈りは、「願い」よりも届きます。
それは純粋な愛の力がこの現実世界で一番反映されやすいからなのです。






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合格あなたのハートに愛と光を合格
不条理なことや理不尽なことが起きたり、
どうやっても変わらない現実が目の前にある時
人は大抵「諦める」という心情になりますね。

自分ではどうすることも出来ないから、その事態を諦める。
こういうとき夢や希望などもそっくり捨ててしまったりします。

「諦める」とは怒りの感情の一つで、
何かを諦めようとするとき怒りを使ってその欲求を抑え込もうとします。
希望や見込みがないと思ってやめたり、断念することですね。


「諦」という字の元の意味は「明らかにすること」です。

諦めるとは、仏教用語の「諦観」からきており、
「諦めて観る」が今ではすっかり言葉も意味も変化して「あきらめる」になったのです。

ではこの「諦めて観る」とはどういうことでしょう。

「諦観」とは本質をはっきりと見極めることです。

本質、すなわち宇宙の真理のこと。
全ての結果には必ず原因があり、原因なしに起こる結果はないということをしっかりと見極めるのです。


Crystal breath

             ノラナの花言葉は「揺れる心」
Crystal breath


不条理だったり理不尽な事、
また他者から与えれた(ように見える)出来ごとは
その状況をあるがままに見ようとしても中々見れませんね。

どうしてもその状況は自分が巻いた種とは思えないからです。

ですが、その状況を選択した、
つまりは創造したのは元を正せば自分なのです。

悲嘆に暮れているのなら、その感情にのまれるかどうか、
それまでの自分の在り方が問題だったのです。


天災などに遭遇した場合、
状況や環境は自分ではどうすることも出来ない場合もありますが、
その状況を受け入れ見極め、自分の在り方を変えることは可能です。
それが本質をはっきりと見極めるということなのですね。


心の底で、「私はあきらめる」と言いなさい。
すると沈黙が降りてくる。祝福が降り注ぐ。


~OSHO~

その状況を受け入れ諦めて観ることが出来れば、
エゴや怒りの感情は静まります。
するともっと正確に今の現状を観ることができ、
そこから自分の在り方を変化させることが可能になります。
その「変化」がOSHOのいう祝福なのです。


諦めて、今の現実から目を逸らし断念してしまいますか?

それとも、諦めて観ることで新しい人生の選択を選びますか?

今の現実や状況を変えたいのなら、その現状を明らかにすることです。
そこには向き合う事への痛みもありますが、必ず祝福は訪れるのです。




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チューリップピンクあなたのハートに愛と光をチューリップピンク
約束とパイの外皮は、簡単に破れるものだ。

これは「ガリバー旅行記」の著者ジョナサン・スウィフトの言葉です。

人は成長していく中で沢山の約束を、多くの人と交わしています。
親・兄弟・子供・先生・友人・恋人・パートナーetc…。
全てを守り尽くした人はいないでしょう。
すっかり忘れてしまった事もあれば、未だ継続中な場合もありますね。

約束って一体何なのでしょう。

約束の言葉の由来は、
「約」の字は糸に液体を湿らせ、
引き締めて目立たせた「目印」を表し、
目印をつけて取り決めをする意味があります。

そして「束」は木を集めて紐で縛った様子を表しています。

約束とは、目印をつけて取り決めをし、
見動きが取れないようにする意味があるのです。


なんだか仰々しく聞こえますが、見動きが取れないようにするというのは自由が無いということ。

約束は「守る」というのが前提にありますが、
これは人が生きていく上で創り上げたルールです。
エゴによる支配欲や独占欲、権力・自己主張などを正当化し条件をつけ
維持していくのには『守る』というルールは最適なものだったのです。


約束をすることによって、人は安心感を覚えます。
まだ叶ってもいない条件に希望を抱き、
それが現実化された妄想を創り出します。

ご褒美的な条件付けの約束は、対象者が益と思うものであれば
プラスの作用を生みだす場合があります。
成績があがればお小遣いが貰えるとか、何かを買ってもらえるなどですね。

逆に、対象者が益を感じない場合、これが「破る」に繋がっていきます。

約束は双方が益を成す(エゴを満たす)ことを条件としているので
どちらかにそれが感じられなければ、守ろうとしなくなるのです。
もちろん、これはエゴの働きです。


そうなると人の心理としては自由を求めてしまいます。
身動きが取れない状態からの脱却ですね。

だから約束は「簡単に破れる」のです。

Crystal breath

              オミナエシの花言葉は「約束」
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約束が破られると、それを果たさなかった人は最終的には無力になり失望します。
守れなかった後悔と、そのことに対する自己嫌悪に陥るのです。
そして自分で自分を傷つけてしまいます。

同じことが自分への約束に執着する人にも起こります。
破られたことで、大事に思われていないと感じたり、
騙されたと感じて、相手を非難してしまいます。
結局はこれも自分で自分を傷つけているのです。



約束を守る最上の方法は決して約束しないことだ。

~ナポレオン~

約束をしないというのは、条件の回避の為ではありません。
自分や相手を傷つけることをする必要はないということです。


ある条件を守ろうと思うのならば、自分の意志一つで守れるのです。

わざわざ相手と約束をし見動きが取れない状態でいるよりも、
自由でいながら自分の意志で貫くことを選択すればいいのです。

スピリチュアルな視点から言えば、
約束が破られた状態で双方が傷つけば、カルマとして残ります。
無駄にカルマを創り出す必要もないのです。


約束をするなと言ってるのではありません。
まだまだ社会生活の中ではごく普通のルールに基づいた行いです。

ただ、今なにか約束をしている、もしくはこれからするのならば、

それは自分の意志で守るということを意識してくださいね。

エゴや欲に支配された条件を叶える為に守ろうとしてもそれは簡単に「破られる」のですから。



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ドキドキあなたのハートに愛と光をドキドキ