私の所に来る相談の中で一番多いのが「愛し愛されたい」という願いです。

人は誰でも「愛されたい」という感情を持っています。
愛されていることに気がつかないうちは、この感情はとても辛く苦しいものでしょう。

何故愛されたいと思うのか。

それは自己愛の不足から起こります。

子供の時に十分愛された記憶が無かったり、
パートナーからの愛を感じ取れないというのは
自分を愛せていないから、「愛されることを知らない」状態なのです。

誰かを愛する・愛していると感じた時に、その人とずっと一緒にいたいと思いますよね。

これは独占欲や所有欲をエゴがかき立てているのです。
愛していると錯覚しながら、一緒にいたいと見返りを求めてしまうのです。
それが膨らむと今度は「愛されたい」という欲求に変わっていくのです。
そういった欲求を満たすために、結婚という儀式が創り出されました。
特定のパートナーを公に自分の所有物にする儀式です。


では「愛する」ってどういう状態のでしょう。

本来は「愛する」ことって、喜びに満ちていて安らぎがあり、自由なのです。

愛は心の隙間を埋めるものではなく、自分の内側から溢れ出るものだからです。
自分が愛の源泉となり自らを満たすと、そこから溢れた愛は他者へと流れていきます。

それが「愛する」状態です。

溢れ出たものだからこそ分け与えることができて、
そして見返りを必要としないのです。

自分は自分の愛で満たされているのだから、他に求める必要がありません。
求めないのだから、所有したい・独占したいという欲もなく
ただそこにその存在がいることが喜ばしく、その全てを受け入れることが出来ます。


全てを受け入れる・・・それは自分にとってよい事も悪い事も全てです。

相手に対する束縛も拘束もないから、自由です。

愛することっていうのは、一方通行なのです。
器から溢れた水が流れ出るように、ただただ流れていくだけなのです。
流れた水を補充しないのです。

Crystal breath

            スイセンの花言葉は「自己愛」
Crystal breath


自己愛が足りないと、自らの心の器に愛が満ちていません。

だからその隙間を、他者からの愛で埋めようとしてしまいます。
だけどいくら埋めようとしても「もっと欲しい」と感じるばかりで埋まらないのです。

だから、愛されるとはどういうことか条件をつけてしまうのです。

「こんなことしてくれたら、愛されてると感じる」という風に。
でもそれが叶っても、また次の欲求が生まれるのです。


毎日「愛してる」と言って貰ったら、愛を感じると思っていても、
いざ毎日言われ続けてそれが日常化すると
それは本心から言ってるの?と疑いを持ちます。
たまたま、何かの理由で言い忘れた日があったり続くと、
今度は浮気してるんじゃと不安に駆られます。

これって、豊かになりたいけど豊かになれないスパイラルと同じですよね。
これでは「愛し愛される」には永遠に辿りつけません。

自分が自分を充分に愛していれば、他者からの愛は直ぐに感じ取ることができます。

それは言葉ではなく、物でもなく、心で感じるものです。

相手の笑顔だったり、何気ない行動の一つ一つだったり、
その人がこの世に存在していることだったりします。
そしてそこには必ず「喜び」と「感謝」が溢れます。


先ずは自分を愛しましょう。

自分が愛の源泉になることで、
愛は循環され「愛し愛され」心は満たされていきますよ。



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あなたのハートに愛と光を


本来の愛の形は、喜びと祝福と自由があるものです。

相手を束縛したり、所有化したり見返りを求めるものではなく
相手の全てを受け入れ、認め、赦し、互いに喜びに満ちているものです。
例えばそれが別れることになっても、それは新しい創造の始まりなのですから
そこには祝福があるはずなのです。

今で言う不倫は悪い事だと言われますね。
でも太古の昔は、何人ものパートナーがいても悪い事ではありません。
その違いはなんでしょう。

相手を独占したい心が芽生えたり、
どうすることも出来ない思いに苦しんだり
別のパートナーへ苦しみを与えたり
(アブラムの二人の妻の関係ですね)
肉体的欲求だけを求めていたり、
精神的な穴(心の寂しさ)だけを埋める為だったら
本来の愛とはかけ離れています。

そしてそういった感情や行動は、神の倫理には当てはまりません。

これは特定のパートナー以外との関係だけではありません。
婚姻した関係であっても同じです。

所有欲・独占欲・見返り・束縛……

無条件に愛せてなければ同じなのです。

だから過去世に結婚していた者同士であってもカルマが残るのです。


人を愛するという行為は、美しく素晴らしいものです。
そこには神の祝福が宿ります。

そして人は、互いに自由です。
束縛も拘束もなく生を自由に創造出来ます。


それを『倫理にあらず』の行為にしてしまうのは
人間の欲とエゴが浮上するからなのです。

Crystal breath

             ストックの花言葉は「愛の結合」
Crystal breath


あなたが(相手に)しがみつけばつくほど、関係は醜くなる。

最初に喜びが失せ、あらゆる魅力が失せ、あらゆる磁力が失せ、
そして病気に、病的になり始める。

私がある関係を病的と見なすのは、あなたがしがみつく為だけにしがみつき、
他にしがみつくものが何もない時だ。

あなたは失うのを怖がり、変化するのを怖がり、
新しい関係に移って行くのを怖がって、しがみついているだけだ。

――だがマインドは、条件づけを通して機能する。

何千年もの間、ひとりの人に誠実であるべきだと考えられて来た。

私はあなた方に、全く違うことを教えている。

私はあなた方に教えている・・・人にではなく、愛に誠実でありなさい。
愛に誠実でありなさい。
決して、愛に背いてはいけない。それだけだ。

もし時々、人が変えられなければならないのだったら、変えられなければならない。
だが、決して愛に背いてはいけない。

古い伝統というのは、愛には背いても、決して人に背いてはいけない、
ひとりの人にしがみつけということだ。
そして物事が、何千年もそこに在り続けると、それはあなたの血や骨の一部、
髄の一部になり、あなたは無意識に機能し始める。

いつの時代もあなた方は、人に誠実であり続けるよう教えられて来たが、
それにはあまり高い価値はない。
より高い価値は、愛に誠実であり続けることだ。

もしそれが、ひとりの人と起こっているのなら、全く素晴らしい。
私は「変えなさい」とは言っていない・・・どこに変える意味がある?
もしそれが、その人と起こっていないのなら、どこか他でそれを起こさせなさい。


~OSHO~

人は本来の愛の形を思い出す必要があります。

高い次元から相手を愛し、その全てを受け入れる喜びに包まれた愛。

愛した誰かが別の誰かを愛しても、その全てを受け入れ赦し祝福する出来る愛。

現代の不倫事情やエゴや執着から起こる愛を「愛」と勘違いしてはいけません。
それは愛ではなく、神の「倫理にあらず」なのです。


愛に誠実になれない時、どこかでそれを起こさせなさいとOSHOは言ってますね。
欲や執着を解き放ち、愛に誠実であることを起こさせなさいと。

神の倫理で人を愛せるようになることは、
この世界から憎しみや悲しみや苦しみを取り除きます。


自分の愛の器をもっと広げていきましょう。
愛する人を全て受け入れて、喜びと祝福で満たされてくださいね。



ご覧いただきありがとうございますキラキラ



黄色い花あなたのハートに愛と光を黄色い花
旧約聖書のサムエル記には、ダビデ王についての記載があります。

ダビデ王は8人の妻がいましたが、ある時自分の部下の妻(バテ・シェバ)と寝ます。

バエ・シェバはダビデの子を身ごもったので、
ダビデは戦死に見せかけてバエ・シェバの夫であるその部下を殺害してしまいます。
そしてバテ・シェバを自分の妻にしました。

神の使いはこのことに対し、主の言葉として次のように言います。

『どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前で悪を行ったのか。
あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。』

ダビデはバテ・シェバの懐妊を隠すために、彼女の夫であるウリヤを殺害します。
そしてその妻を自分の妻にします。

それが神がいう罪なのです


ダビデ王は沢山のものを神から与えられていたのに、
自分のエゴで人の妻を奪ったからです。

神は欲やエゴに対しては罪を科せるのです。

ですが、多妻に関しては罪とはしないのです。

バテ・シェバの生んだ最初の子供は神の怒りによって病気になり死にますが
次に出来た(ダビデの妻になった後に懐妊した)子供を、神は愛するのです。

その子の名前はソロモンです。
(後に偉大なる王ソロモンとなる人です)

どうしてでしょう?

同じ女性が、同じ相手との間に子供を生んだのに、
一人は神の怒りに触れ、一人は神に愛される。

これは神のきまぐれなのでしょうか。

それとも生まれてきた子がソロモンだったから、たまたま神が愛してくれたのでしょうか?

Crystal breath

             ジギタリスの花言葉は「不誠実」
Crystal breath-ぐりーんらいん


以前、愛は創造のエネルギーだという話をしたのを覚えていますか?

二つのエネルギーは融合し、新しい創造を始めます。
それは喜びや情熱を生みだし、祝福で満ちているという話です。
いくつものエネルギーは分離と融合を繰り返し、
そこには全てのものからの祝福と喜びがあるのです。


私達は神の愛を体現する為にこの世に生まれています。

それは「無条件の愛」を体現するということ。

無条件なのですから、欲やエゴが絡みついていてはいけませんね。

ダビデのように懐妊隠しの為に人を殺害するのは、まさに自分の身を守る為のエゴそのものです。
だから罪が課せられたのです。


しかし、二人目の子供ソロモンが生まれた時は
ダビデはバテ・シェバの悲しみを憐れみ彼女を愛しているのです。
だからソロモンは神に愛されているのです。

現代の恋愛事情はどうでしょう?

人が人を愛するのは、太古の昔から同じ行為です。
ですが、その愛の形に問題があるのです。

8人も妻が居ても、それぞれに喜びと祝福があれば罪にはなりませんでした。

今は、パートナーに対する所有欲の現れのもとに
互いの愛の制限が生まれています。
不倫という名のもとに、相手を奪い合う争いもあります。

キリスト教も仏教も、この所有欲からくる争いや制限を回避するために
姦淫してはいけないと説いているのです。




ご覧いただきありがとうございますもみじ



新月あなたのハートに愛と光を新月