上の画像は昨年訪れた
群馬県前橋市の愛宕山古墳。
総社古墳群を構成する古墳の一つで
7世紀の第二四半期に築造された
一辺の長さ約56mの方墳です。
横穴式石室には、くり抜き型の石棺が。
ここまで手間を掛けたものは
畿内でも少数だと思います。
強い勢力の証でしょうね。🤔
愛宕山古墳の次に作られたのが宝塔山古墳。↑
一辺の長さ66mを測る方墳です。
造営は7世紀中頃と考えられています。
宝塔山古墳の見所は精緻な横穴式石室。
律儀に加工された切り石の間に
漆喰を塗布するという凝った作りです。
ちなみに、こちらの石棺もくり抜き式。
被葬者は相当なヤツだろうなぁ~!!😲
総社古墳群の方墳、まだありまっせぇ~😁
約44m四方の蛇穴山古墳です。↑
宝塔山古墳と比べると小ぶりですが
何と言っても石室の質感が高い。
上下と四方を巨大な一枚岩で囲みます。
表面がとても丁寧に加工されておりまして
これ程高度な作りの石室は
なかなかお目にかかれないと思う。😍
総社古墳群の主要な方墳はこの3基ですが
方墳が作られる前は
遠見山古墳(5世紀後半、全長88m)
↓
王山古墳(6世紀初頭、全長75.6m)
↓
総社二子山古墳(6世紀後半、全長90m)
といった具合に
3基の大型前方後円墳が続きました。
‟ヤマトスタンダード”である前方後円墳は
7世紀あたりでフェードアウトしますが
総社古墳群が興味深いのは
前方後円墳消滅後に方墳が続く事です。
それもかなり大型で、石室も凝っています。
前方後円噴が姿を消した理由には
様々な要因があると思われますが
個人的には蘇我氏の台頭が大きいと思います。
逆に言えば、前方後円墳の後に方墳が続くのは
総社古墳群の一族が
蘇我氏と関係が深かった証でしょうね。
石舞台古墳や都塚古墳を始めとして
蘇我氏と言えば‟方墳”と言っても良いと思う。
実は千葉県でも大型の方墳が出現しています。
では、方墳の後はどうなったのか?
全国的に古墳は寺院に移り変わってゆきます。
総社古墳群の一族も寺院を建立しており
「山王廃寺」という遺跡になっています。
昨年の秋にオヤジは訪れました。
これ(↑)何だと思われますか?😁
なんと、石製の鴟尾(しび)。
瓦葺屋根の大棟の両端に設置する装飾です。
こんな(↑)感じで古い寺院の
屋根に乗っているのを見かける事がある。
しかし山王廃寺の場合は‟石製”です。
鴟尾だけではなく塔の心柱を支える
塔心礎(↑)や
根巻石(↑)も見つかっているようです。
根巻き石と塔心礎はこんな(↑)具合に
心柱を支えていたようです。
伽藍配置は法起寺式で
法起寺は奈良県の斑鳩
つまり法隆寺の関連寺院ですから
聖徳太子や蘇我氏を連想してしまう。
(聖徳太子と蘇我氏は同族)
総社古墳群を訪れた時から
蘇我氏との関係が気になっていました。
「巨大古墳の古代史」という書籍を読んだら
群馬県立歴史博物館特別館長の
右島和夫先生が総社古墳群の方墳と
蘇我氏との関係性に触れておられました。
おお~っ! オヤジと同じ意見!!😲
俺もなかなかやるなぁ~!!😁
なんて自画自賛していますが
考古学的には当然と言えば当然。
中央(蘇我氏)との関係から
古墳時代の上野国で最大の勢力を誇ったのは
総社古墳群の一族じゃないのかなぁ?
上野国の他の古墳群で、前方後円墳の消滅後に
大型方墳が継続するグループは無い筈です。
ただその後、上野国も律令制が進んで
国分寺が建立されると同時に
個別の豪族は徐々に衰退したと考えられます。
中央集権が芽生えると
有力な豪族は力を削がれていく訳だな。🤔
なるほど!オヤジも少し賢くなったのか?😁
数年前に訪れた奈良の法起寺。↑
千葉にもデカイ方墳が・・・・・・・😲
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