熊本城:ここまでやる?! | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

 

熊本城の天守が復活しました。🏯

震災が2016年ですから

早いもので既に7年経過した訳です。

しかし良くぞここまで復活した事よ!😄

とは言ってもまだ復興途中なので

空中回廊からお城を眺める仕組みです。

地震の被害を受けても素晴らしい城ですね。

正に‟鉄壁の守り”という言葉が相応しい。

 

 

石垣を跨いで作られた本丸御殿の地下には

「闇り通路」(くらがりつうろ)

という地下通路が備えられています。

全国的にも珍しい設備だとか。😲

 

 

石垣の一部が崩落した数寄屋丸二階御広間。

(すきやまるにかいおんひろま)

震災が残した傷跡の大きさを感じます。

熊本城は加藤清正が1607年に完成させ

同時に地名を「隈本」から「熊本」に変えたそうです。

加藤家は1632年に改易となり

その後細川家が後を継ぎます。

細川の時代も城は拡大を続け

一時は五階建ての櫓が6棟という

正に‟難攻不落”の城が出来上がった訳です。😲

 

 

熊本城は茶臼山という台地の上に広がります。

標高約は40mくらいでしょうか?

天守周辺の地下50メートルくらいは

阿蘇山の噴火堆積物が層を成し

更にその下には城の北西部に聳える

金峰山から流れ出た溶岩で形成されています。

噴火の堆積物はそれほど強固ではありません。

岐阜城や彦根城のチャート

或いは白河城の安山岩と比較すると

明らかに地盤は脆い筈です。

実際、明治22年(1889年)に起きた

熊本地震でも被害を受けました。

 

ちなみにお濠の水は阿蘇を水源とする

白川(画像の青線)から取り入れています。

 

 

熊本城の最大の特徴は櫓の数も去る事ながら

攻め手の前に立ちはだかる高い石垣でしょう。

 

 

上部に向かうに従って

鋭角的になるように石積みされています。

有名な「武者返し」という技法です。

視覚的防御効果はかなり高そうだなぁ~😲

 

 

天守の内部は資料館になっており

石垣の積み方を解説する展示も。

なるほど、こういう仕組みなのですね。

初めて知りました。🤔

 

 

竹の丸から飯田丸へ抜ける通路は

連続桝形といいまして

合計6ヵ所のクランクが設けられています。

竹の丸は南方面の入り口で

明らかに薩摩藩を意識しています。

6ヶ所も折れ曲がる通路なんて

他の城では見た事が無い。🤔

明らかに‟やり過ぎ”ですよね。

 

 

上の写真は明治10年(1877年)の西南戦争で

建物が消失する前の熊本城の様子。

櫓が60棟以上も建てられていたらしく

本当に驚いてしまいます。 

 

 

実は‟やり過ぎ”には理由があります。

上の図は城の見取図で

左下から右上に抜ける赤い線は薩摩街道。

つまり薩摩藩の参勤交代は

熊本城内を通過しなければならない。

更に街道なので、数多くの兵隊を移動させる事も出来る。

威容を見せて戦う気持ちを起こさせない事も

防御の重要なポイントだと思います。

正に「戦わずして勝つ」という事だな。🤔

 

 

天守の最上階から南側を望んだ図。↑

画面中央やや右よりの大通りが

旧薩摩街道です。

街道の往来に異変が有れば

天守から一目で分かる。

 

 

加藤神社から撮影した天守。

中学の修学旅行の時

月夜の熊本城の絵葉書を購入しました。

画像の美しさを今でも覚えています。

もしかしたらこのアングルだったのかも?

(恐らく違うだろうな~) 😁

 

 

加藤家の改易後は

細川忠利が城主になりました。

細川家も熊本城の整備を続ける訳ですが

言うまでも無く薩摩を警戒しての事。

その薩摩が深い関係を持つ近衛家と

現代の細川家は姻戚関係を結んでいます。

なんとも皮肉なめぐり合わせですわ。🤔

 

それにしても戦国時代の土木技術は進んでるなぁ~😲

ある治水の専門家の方が仰ってました。

「日本の治水のベースは戦国時代です。」

 

熊本城はとても勉強になりました。