秋常山古墳群 | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

 

「こまつの壮」の後は能美市の秋常山古墳群に向かいました。

駐車場にクルマを停めて

秋常山八幡神社の鳥居を潜り古墳にアプローチします。

秋常山地域はその昔

京都の石清水八幡宮の荘園だったそうです。

八幡神社は応神天皇や神功皇后ゆかりの神社。

そういえば、兵庫県の出石神社に行った時

神功皇后が渡来系の神であるアメノヒボコの

末裔みたいな説明書きがあったなぁ~

やはり日本海側は朝鮮半島との関係が深い。

 

 

“古墳群”と言っても

前方後円墳の1号墳と方墳の2号墳の2つで構成されているだけ。

平成11年(1999年)に国の史跡に指定され

古墳公園として整備されました。

 

 

1号墳は全長約140メートルの北陸地方最大の前方後円墳です。

上の画像の右側が前方部で左が後円部。

築造されたのは4世紀後半だといいます。

段築も綺麗に復元さていますね。

 

説明版を読んでいるオバサンの事は

気にしないでください。

 

 

後円部から前方部を眺めた図。(↑)

古墳が整備される前

八幡神社は前方部に鎮座していたそうです。

 

見取り図をご覧頂くと前方部がかなり短い。

前方部末端が崩壊した可能性もあるそうです。

後円部の最大径が110メートルですから

本来全長が200メートル前後の可能性もある。

だとすると、北陸ではダントツの前方後円墳ですよね。

被葬者はヤマト政権とかなり濃厚な関係を築いた人物なのでしょう。

 

 

葺石の調達は近くの手取川。

信長と謙信の「手取川の戦い」は有名です。

 

 

後円部から前方部方向へ撮影した画像。(↑)

画面左下は造り出しです

 

 

前方部から後円部に向けて撮影しました。

古墳の撮影は広角レンズに限る。

前方後円墳は「見せる古墳」と言われますが

こういう写真を見ると

ある種の“美しさ”も兼ね備えていると思う。

 

 

後円部越しに前方部を撮影したもの。(↑)

 

ところで古墳の天敵は雨です。

浸食されて盛土が流される可能性があります。

しかし古代の人々の凄いところは

ちゃ~んと排水設備を設けている事です。

高度な排水施設を古墳に取り込んだのは

恐らく中央政権の技術者でしょうね。

地域によっては弥生時代に墳墓を築造した経験も無いので

地方の豪族が排水設備を考案するのは

無理があるというもの。

やはり前方後円墳の被葬者は

中央と深い関わりがある人物だと思います。 

 

 

1号墳の石室は調査されていません。

しかし電気探査で、おおよその事は分かっているそうです。

上の画像は後円部の埋葬施設の予想図。

「第2埋葬施設」が設けられています。

これは奈良県のメスリ山古墳のように

副葬品のみが埋められているのかも。

メスリ山と秋常山は築造された時期が近い?

 

 

1号墳に寄り添うように作られた2号墳。

時代的には1号墳の50年~100年後でしょうか?

大きさは東西約32.5メートル、南北27メートル

高さは東側が4.8メートルで西側が約2.8メートルになります。

浸食によって全高が東西で異なるのでしょう。

上の画像の中央よりやや右側の扉をから

埋葬施設の展示室に入る事が出来る。
 

 

埋葬施設(↑)は幅2.5メートル、高さ3.3メートルの粘土槨に

長さ2.6メートル、幅60~70㎝の木棺が埋められていたそうです。

副葬品の刀子や竪櫛等から

被葬者は女性である可能性が高いそうです。

恐らくシャーマン的な存在だったのでしょう。

 

 

秋常山古墳群の北側を流れる手取川は日本海に注ぎ

古墳群から日本海と手取川を望む事が出来る

水上交通の要衝の地に北陸最大の古墳が築造されている訳です。

交易による経済的基盤があればこそ

大型古墳の築造が可能だったのでしょう。

中央政権の日本海貿易の拠点とも考えられる。

 

そう言えば丹後の立岩周辺にも

大型の前方後円墳があったけ~

 

平清盛、足利義満、或いは巨大宗教勢力は

交易によって絶大な権力を確保しました。

島国の日本ならではの現象と言えそうです。