江原台古墳群 | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

前回は等々力渓谷周辺の古墳を散策しましたが

今回は東急東横線の多摩川駅に向かい、多摩川沿いの古墳公園を見学する事にしました。

上の画像(拡大可)のフリーハンドで描かれたラインは国分寺崖線という河岸段丘です。

緑色の部分が等々力渓谷で、黄緑のラインは多摩川駅の目の前に並ぶ田園調布古墳群になります。

そうなんです! あの有名な超高級住宅街は古墳と至近距離!

要するに国分寺崖線という河岸段丘から湧水を調達し、多摩川の水運を利用した豪族は

利権を背景に大型の墳墓を築造したという事だな。

画像を見れば、国分寺崖線に沿って古墳が作られている事が一目瞭然!

このハケ(国分寺崖線)に沿った古墳群の事を江原台古墳群というそうな。

50基前後の古墳が作られたといいますから、かなりの規模の集団墓地だなぁ~

 

それでは、高級住宅街の古墳を見学しましょう!

 

 

上の画像が田園調布古墳群が集まる多摩川台公園の案内板です。(拡大した方が良いと思います)

画像の左下が駅になり、公園を挟んだ反対側は多摩川が崖下に流れています。

 

古墳群から見た神奈川方面です。

ロケーションはとても良い。

画像に写っている高層ビルは武蔵小杉のタワーマンション群。

最近人気急上昇のエリアです。

それにしても、誰が川を下っているか良く分かりますよねぇ~

当然、川からも古墳は良く見えた筈です。

 

興味深いのは古墳群の一角が旧浄水場になっていた事です。

直下の多摩川から水を汲み上げて浄水していたらしい。

当然古墳を作った人々も多摩川の水を利用していた訳ですから

人間なんていつも同じ事を繰り返しています。

地形を含めた環境によって、人間が出来る事は限られているのですね。

 

浄水場のお隣は亀甲山古墳(かめのこやまこふん)です。

全長約107メートルの前方後円墳で、後円部が浄水場の方向(多摩川の河口方面)に向いています。

古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造されたといいますから、かなり古い墳墓です。

 

関東の前方後円墳は畿内のそれと比べると、築造された時期が古い。

なにやら理由がありそうな気がしますが・・・・・・・・

 

 

上の画像は亀甲山古墳の後円部から前方部に向けて撮影したものです。

看板が立てられているところが、およそ‟くびれ”の部分。

写真だと何が何だか分かりませんが、実際に現場に行けば感じは掴めます。

ちなみに、前回ご紹介した野毛大塚古墳は田園調布の古墳より築造された時期は新しい。

恐らく、この地にやって来た人々は東京湾から船で入ってきたのでしょう。

最初は多摩川の下流に拠点を築きますが、稲作の発展や陸上交通の発達によって

次第に上流方向へと移って行く・・・・・・・・・・・

そういうイメージでしょうか?

よく分かりませんけどね。

 

亀甲山古墳から公園の中を多摩川上流方面に歩くと、円墳がずらりと並んでいます。

当然、これらの古墳は築造された時期が、ぐっと新しくなります。

円墳になると、古墳時代の終焉も近くなる。

 

円墳を挟んで、公園の上流部先端に鎮座するのが蓬莱山古墳(ほうらいやまこふん)。

開発によって後円部は殆ど破壊されています。

築造は4世紀前半だといいますから、こちらも相当に古い。

卑弥呼が死んじゃって、100年前後しか経っていないから

ヤマト政権の統治的基盤はまだ固まっていない筈ですが

そんな時期に蓬莱山古墳の被葬者は政権へ協力的な態度を示していたのか?

それとも、元々畿内の人で、東国の開拓の為に移り住んできたのか?

 

ちなみにワタクシは後者の方を想像しております。

 

こんな感じで灼熱の古墳巡りを終わろうと思ったら

何やら古墳公園に含まれていない古墳があるようです。

東横線を挟んだ公園の向かい側(多摩川下流方向)に、浅間神社が鎮座しているのですが

実はこの神社、古墳の上に建てられています。

 

古墳の形式は前方後円墳で、後円部に神社の拝殿が建てられており

前方部は東横線の線路が敷設される際に破壊されたようです。

こちらの古墳の築造は田園調布古墳群の中でも新しい方でして、6世紀あたりだといいます。

野毛大塚古墳よりも新しいのがポイント。

田園調布古墳群の一族は多摩川の下流、つまり東京湾に拘り続けたのかのでしょうか?

 

ああ、分からない。

 

荏原台古墳群のお話しはこれでおしまいです。