こんにちは。
昨夜は七夕でしたね✨
日本最古の七夕伝説は丹後の「乙姫神社」なのですよ😆✨
※こちらです!
日本最古の天女も京丹後市なので、この話は道教の神仙思想がある大陸との交流を描いたものかもしれないですね😆
さて、わたしたちが「大社」と呼んでいる社号は、出雲大社だけであり、延喜式にも大社と書かれたのは出雲大社だけですが、
これはどうも、
めちゃくちゃ高い建造物だった、
ことに由来するようなのです😅
どれくらい高いんだい?と言うと、
古事記に書かれているのは、「柱は地をつらぬき、屋根は天に届く」ほどだったということで、
社伝によると、高さ97メートルだと言うことなのです。
※今は24メートル
その後、平安時代には48メートル、
現在はその半分の24メートルくらいとなっていますが、今も十分に高い😅💦
これは出雲国風土記にも載っており、造営にあたっては、柱は高く太く、板は広く厚かったようで、これを「天の日隅の宮」と呼んでいました。
出雲大社は明治時代まで「杵築大社(きつきのおおやしろ)」と呼ばれていまして、今も地名に残っています。
平安時代の口遊(くちずさみ)という児童書にも、「雲太、和二、京三」と書かれていて、これは当時の建造物の高さを示すようで、
「雲太とは出雲国城築(きづき)明神の神殿をいふ、和ニとは大和の国東大寺の大仏殿をいふ、京三とは大極殿八省をいふ」
と、少なくとも昔の東大寺の大仏(おおよそ45メートル)よりも高かったのです😅
さらに、鎌倉初期の寂蓮法師(藤原定長)は次のように語っています。
「雲のたな引く八雲山のなかばの高さにまで、神殿の千木がそびえたっていて、この世のこととも思えなかった」
というほどですが、その高さにより出雲大社は何度も津波や台風で倒壊していて、その度に建て直され、よみがえっていたのですが、
次第に、
「巨大な神殿だったなんてうそっぱちだ」
と研究者も相手にしなくなったのです😅
しかし、2000年に出雲大社の一メートルの丸太を三つ束ねた巨大な柱が発掘されると、宮司さんが持っていた古代の社殿の設計図と一致することから、
それを地元の建築会社がシミュレーションしたところ、巨大神殿は建設可能だった、ということが証明されました。
この設計書はもちろん国宝❗️
宝物殿に飾られておりますよ✨
※島根県立古代出雲歴史博物館より
しかも、巨大柱は赤い丹が塗られており、防腐剤を施されていたのです。
ちなみに縄文土器にも赤い丹が塗られていたので、日本における丹というのはスタンダードで、古代の人はけっこう色々と効能を知っていたのだなあーと思います😅
これが、漆の文化となり、日本海側などに残っているのですね😆✨
宮島の大鳥居なども、古式の方法で塗られているのですよ⛩️
ちなみに水銀が含まれていますので、身体に塗っていた祭祀を行う巫女などは水銀中毒があったのかもしれないですね💦
それにしてもなぜこのような日本海の西の端っこに巨大神殿があったのかというと、
この出雲平野は古代は海だったからです😅
※宍道湖は海水です♪
そう、島根県は島根半島というひとつの島だったため、その入り口に出雲大社はあったのですね。
奈良時代でも、けっこう海でした😅💦
この日本海ルートは、瀬戸内海ルートの開拓と船の機能が上昇してから、次第に衰退していきます。
古代の海上ルートは出雲が入り口だったので、高さがないと、機能的に難しかったのかもしれないですね😅
わたしたちが忘れてしまった、
わたしたちの故郷でもあります。
今はその名残は宍道湖(しんじこ)だけになっていますが、良質な砂鉄が取れるので、出雲はとても発展して、今でも斐伊川はけっこう赤茶色です✨
なお、出雲大社のパワースポットはこの古代出雲大社の柱跡であります😆✨
ここに立っているだけでチャージできますので、ぜひ拝殿のお参りにいくときに、立ってくださいね✨
ということで、わたしたちが忘れてしまった、伝説の出雲の巨大なおおやしろ、でした😆