『シン・エヴァンゲリオン劇場版』もう1回見てきました。
須々木です。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
もう1回見てきました。
(一週間以上前ですが)
というわけで、前のブログの続きです。
今回は前置きなしでいきなり本題へ。
※普通にネタバレ気にせず書いています。ご注意。
例によって、思ったことをまとまりなく書いた備忘録的なものです。
エヴァに関しては様々な角度から考察した記事が世にたくさんあるわけなので、考察記事に興味がある人は適当にググってください。
以下、あくまで個人的解釈に基づく感想です。
すでに多くの人がいろいろなことを語っているので、被るところもたくさんあると思いますが、気にしない方向で。
* * *
すべて見届けた上で、当然いろいろ思うところはあるわけですが、その中の一つに「当初思っていた以上にマリが効いてきたな」というのがあります。
新劇場版からの登場キャラですが、旧劇場版までと違うことをして、違うところに到達するために、ここまで重要な意味を持ってくるのかと。
マリという存在は、庵野さんがつくりあげてきたエヴァという世界において、異物でありキー。
シンジ、レイ、アスカを中心とするオリジナルメンバーたちの、ある意味で「閉じた世界」「バランスの取れてしまった世界」に歪みをもたらし、グルグル巡るループを終わらせるきっかけのような役割。
でも、結局マリとは何者だったんでしょうね?
シン・エヴァでの描写を見ると、ユイとゲンドウを引き合わせたのもマリなのかな。
とすると、マリがいたからシンジが生まれたということか。
これは、最終的にシンジの中にユイを見出し、ゲンドウとユイが再会できた構図にも似ています。
マリによりユイとゲンドウが出会って始まった物語が、シンジによりユイとゲンドウが再会して終わる・・・という感じ。
しかし、やはり何者なのかは情報不足(たぶん)。
冬月曰く「イスカリオテのマリア」とのことで、ここからもいろいろ考察されていそうですね。
マリは、作中でも明らかに他のキャラが知らない情報を知っている感じでしたし。
「ビースト・モード!」に気を取られつつ、実は「なぜそんなことを知っているのか?」の方が重要なのかもしれない。
「綾波」「式波」がいて「真希波」。
戦艦に由来する名前をキャラにつけるといっても、あえて「~波」で揃えたことに穿った見方もしたくなります。
特に「惣流→式波」の変更の意味を考えると。
伏線のようなにとれる数々の描写は、「シン・エヴァ」作中でも明確には回収されませんでした。
というか、謎が追加されたものまである。
「シン・エヴァ」では、終わり方もかなり印象的でした。
今までいろいろ凄い終わり方があっただけに。
最後のシーンで、大人になり声変わりしたシンジが描かれた演出は、感慨深かったです。
「ついに・・・」みたいな。
庵野さんが生まれ育った地。
作中でエヴァパイロットとしてシンジが葛藤したのと同じ年代を庵野さんが過ごした地。
そこから外界に旅立つための駅。
実写とアニメの混在する演出は、アニメのような夢がさめ、リアルの世界にようやく帰って来たような妙な感覚にさせてくれます。
アニメの世界とリアルの世界は、完全に分断されているものではないと。
そして、シンジも、アニメキャラというより、妙にリアル寄りの人物のように見えました。
エヴァのパイロットではなく、普通の人になれたんだなあと。
「Q」で描かれた「エヴァの呪縛」なるものは、エヴァのパイロットだけでなく、庵野さん自身も含め受けていたのだろう(そしてコアな視聴者も)。
周囲はいつの間にか折り合いをつけ世界を受け入れ大人になっていく。
以前は同じ時間を生きていたはずの人たちと、ズレていってしまう感覚。
「時間は誰にでも平等」などという考え方に対する強烈な違和感の訴え。
そんな呪縛から解放され、駅の階段を駆け上がっていく姿は、これこそ本当の「おめでとう」というやつです。
良いか悪いかという意味付けを抜きにして。
エヴァのない世界に辿り着いた物語。
それは「エヴァがなかったことにされた(はじめからエヴァのない)世界」なのか。
それとも「エヴァという体験があったからこそ価値をもったエヴァのない世界」なのか。
それ以前と比べ、何かを得ることができた世界なのだろうか。
結局、エヴァとは何だったのか(いろんな意味で)。
「テレビシリーズ~旧劇場版」と「新劇場版」では、テイストがかなり違います。
これは、庵野さん自身の変化なのか、見ている者の変化なのか、それとも時代の変化なのか。
もちろん、すべてあるとは思いますが、「先の見えない世紀末」と「必要以上に見えてしまった新世紀」の違いはかなり反映されているように感じます。
あと、旧劇場版までと違い、「社会に様々な形で影響を与え認知されたエヴァ」がすでにある状態でリスタートした新劇場版は、そういったリアルにおいて現場を取り巻く環境の変化に対する自己批評的側面が随所にみられるので、その点は当然違いが出ているように思います。
ゆえに、続編のようなものであっても、両者は根本的にレイヤーの異なるシリーズなんでしょう。
もちろん、この25年で起きた社会的な出来事、社会的な空気も様々な形で取り込まれていると感じます。
(Qの破滅的光景は、やはり東日本大震災の大津波のあとを思わせる)
結果として、極端に作家性の強い難解で私小説的作品でありながら、同じ時代を生きた一般の人々が深くシンクロできてしまう作品になってきたのでしょう。
「新世紀」という言葉が、まだ強い力を持っていた時代に始まった物語。
ケータイもパソコンもまだ普及していないような時代。
ちなみに、テレビシリーズが始まった1995年の流行語大賞トップテンには「インターネット」という単語も入っていました。
作品に描かれていたのは、困難に満ちた、非現実的な近未来。
それが、いつの間にか現実の時間軸に追い抜かされ、「新世紀」などという言葉は忘れ去られました。
その間、現実では様々なことが起き、使徒はやってこなくても、様々な困難や嘆かわしい出来事が起きてきました。
それでも、日常は途切れることなく連なり、時間は経過し時代は移ろいゆく。
ただ、その流れに乗りきれない、歩調を合わせられない呪縛は確かに存在したのでしょう。
だから、エヴァは終わったはずなのに、終われていなかった。
「すべてのエヴァ」を通して考えると、これはある種の神話なのだろう。
結局、テレビシリーズOPの有名なフレーズ「少年よ神話になれ」をやりきったという感覚です。
(新劇場版に「残酷な天使のテーゼ」はないけれど)
神話の最後はいつも同じ。
「だから、この世界は今あるようになったのだ」。
だから、そのような意味において、エヴァというのは長い昔話だったのかもしれない。
エヴァは一つの神話であり、ストーリーが最終的に辿り着くのは「この普通の世界」。
だから、エヴァが何なのかというのは、結局、この社会における神話の役割を考えることとだいたい等しいのかもしれない。
その意味で、旧劇場版は、現実現代に限りなく肉薄しつつも、かすめて通り過ぎた感があったように思います。
圧倒的な破壊力はあったけれど、最後のスクリーン一枚は突破できなかった。
神話は、社会的な生き物であるヒトが思考する上で重要なツールであり、不条理で不合理に感じられる世界の在り様を解釈するためのツールとして機能します。
しかし、同時に、その真偽のほどは重要にならない。
論理的な厳密さも求められない。
何となく起承転結の体裁をとってはいるけれど、それは受け取り手に入り込むためのカモフラージュ。
エヴァという作品も、感覚的にはこういったものに近いと感じます。
庵野さんは、自分が始めたことに「落とし前」をつけたかったのだろう。
シンジの「僕は僕の落とし前をつけたい」などの台詞は、まさに象徴的です。
旧劇場版までで、多くの人たちと自分自身を、ここではないどこか遠く、それこそ彼岸のようなところまで連れて行き、帰ってくる方法は示さなかった(考えなかった/考える余裕がなかった)。
結果として、エヴァは「ここではないどこか」に惹かれる層に対する誘蛾灯となります。
新劇場版は、結局、その「どこかに行ってしまった人々」を連れ帰る試みだったのでしょう(責任感を持って、大人として)。
その意味で、「どこか」に行ってしまっていなかった(エヴァの呪縛にかかっていない)人には、特に、新劇場版は強く響かないかもしれない。
エヴァの呪縛を解くための儀式でもある本作の特異性は際立っていますが、だからこそ唯一無二で、「これしかない」と思えるラストでした。
良い作品だったし、着地すべき点に着地したと感じます。
これ以上の終わり方はないだろう。
正直、「序」の時点で、この新たなシリーズの行きつく果てが、このようなところだとは想像していませんでした。
想像できないようなところに連れて来てくれたことに純粋に感謝の気持ちです。
「シン・エヴァ」では、ここにきて「地に足つけて生きることの大切さ」がこれでもかと強調されます。
社会もしくは生態系がいったんズタズタになった世界において、再生を目指すべきという確固たる意志を感じさせます。
並行して、これまで登場してきたキャラの子供たちの描写も象徴的でした。
子に受け継がれていく、受け継いでいくんだという意思は、エヴァの呪縛を脱することと無関係ではないようにも思います。
そして、本当に充足感を得られる心穏やかな結末に辿り着きました。
もっとも、エヴァという作品において、この感覚は違和感と紙一重だとは思いますが。
しかし、だからこそ、やはり最後まで凄いところを攻めてきたなとも思います。
新劇場版は間違いなく必要だったし、これらの作品を生み出してくれたことに重ねて感謝したいです。
ただ、敢えて空気を読まずに単純な好みの話をすれば、旧劇場版の筆舌に尽くし難い感覚の方が、自分の中にはより強く響きますが。
タイトルのリピート記号については、どのような意図が込められているのでしょう。
ピアノがシリーズを通して重要なアクセントとして機能しているエヴァ。
1990年代の現実からスタートし、物語世界を経由し、再び現実に返ったということか。
しかし、そこはすでに2020年代。
リピート記号には、庵野さん自身が、自分が少年だった場所に再度立ち返り、新たなスタートを切るという意味もあるのでしょう。
そして、視聴者たちは、エヴァという一つの体験において、その庵野さんとシンクロし、ようやく現実の現在に帰ってきたと。
結局、エヴァは一貫して愚直なまでのアイ(愛/I)の物語。
テレビシリーズ最終話のサブタイトルも「世界の中心でアイを叫んだけもの」ですし。
ただ、旧劇場版では、アイを叫ぶことしかできなかった。
それが、ようやく新劇場版でアイに到達できた。
刺激やエンタメという意味では旧劇場版かもしれない。
ただ、充足感という意味では本作でしょう。
これだけストーリーを重ねてきたにもかかわらず、エヴァを見て感じたことのない感情だった気がします。
というわけで・・・
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。
ありがとう、全てのエヴァンゲリオン。
sho