「ポストコロナの創作」を広くザックリまとまりなく考える。
須々木です。
何かつらつら書こうと思い、タイトルを入力したところです。
ということで・・・
結論ありきで書いているわけではないので、このブログがどこに着地するかは不明。
思考を収束させて何らかの有意義な結論を導くのではなく、ただ自由に行き当たりばったりに思考を拡散させるタイプのブログです。
創作サークルのブログなので、タイムリーなネタと絡めて、タイトルのとおり「ポストコロナの創作」について思考したいと思います。
話が脱線したり、飛んだり、飛んだのに戻ってこなかったりするかもしれませんが、ご了承を。
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世界でも日本でも、新型コロナウイルスの集団免疫を獲得する状況からは程遠い。
ゆえに、収束に向かっていると判断できる状況ではないし、終息はまだまだ先の話。
いったん落ち着いても、スペインかぜのように、より激烈な第二波に襲われるかもしれない。
そんな状況ではありますが、最前線で戦っている方々のおかげで、現時点でわりと普通に日々を過ごせています。
地球史において、複数回の大量絶滅が発生し、多くの種が滅びて、生き残った種がニッチに進出し新たな繁栄を築くという流れがあります。
(特に激しい大量絶滅は5回と言われる。その最新が中生代の終わりに恐竜が絶滅したやつ)
平常時では、ほぼ固定化され、ひっくり返すことの難しいピラミッド構造。
これが、大量絶滅のタイミングでリセットされ、新たな秩序が生まれるわけです。
さすがに生物の大量絶滅ほど大きな話ではありませんが、それでも、現在の状況は、世界が同時に変革を迫られているという点で、100年に1回くらいというレベルの、そこそこ稀な状況でしょう。
一瞬息を止めてやり過ごせるスケールのインパクトではないので、行動様式や価値観の更新が進んでいくものと思われます。
結果、様々な事象を取り巻く環境が上書きされるでしょう。
この状況に対し、ただ嘆いたり文句を言ったりして非生産的な時間を過ごす人と、変化をチャンスと捉えすでに動き始めている人が、物凄くはっきり分かれているような気がします。
現段階では経済に注目が行きがちなので、これらの変化は、ビジネスの文脈において語られることが多いと思いますが、当然、広く創作全般も実社会の影響を受けるものなので、程度の違いはあれど変化は不可避でしょう。
というわけで、そんな「ポストコロナ」において、創作を取り巻く環境がどのようになっているか、思いつくまま書き散らしてみようと思います。
なお、僕は専門家でも何でもないので、基本は「こんな気がするなあ」程度のものです。
「そんなふうに考えるやつもいるんだなあ」という感じで見てもらうと良いです。
◆同人即売会
コミケなどリアルの即売会へのダメージは避けられないでしょう。
即売会の価値や在り方を改めて考える契機と捉えるしかない。
「なくなって初めてありがたみが分かる」のか「なくても案外どうにかなる」のか。
同人の創作は、世間様から叩かれやすい要素がたくさんあるからこそ、先んじて自粛する文化がある気がします。
成文化されているわけでもないのに機能する恐るべき秩序により、自粛は大いに機能。
結果として、短期的に大きなダメージを受けたとしても、文化としてはしぶとく生き残るのではないでしょうか。
ただし、当面はリアルでの即売会はやはり厳しい気がします。
そして、ここに大きなニッチが出現するわけです。
とすると、その受け皿は何か?
普通に考えれば、ネット空間における即売会ということになると思います。
・・・などと書いて、実は以前のブログに関連するものがあったので、リンクを張っておきます。
5年以上前なので、内容的に古いところはあると思いますが。
即売会の肝は「祭りの雰囲気」の創出ということになる気がします。
時間と場所を共有し、ワーっとする感じ。
これをネット空間で再現したいのであれば、5Gの普及は鍵になりそうです。
5Gのインパクトについては、ネットを活用するものすべてで言えるとは思いますが、遅延やノイズがなくなってくれば、ネット即売会をやったときのライブ感を高める手段がいろいろ出てくるでしょう。
VRをはじめ、感覚を拡張する各種インターフェイスのバージョンアップがポイントでしょう。
そのうち、「どうぶつの森」の派生形みたいな感じで、ネット空間での即売会が開催されたりする気がしますが、どうでしょう。
ネット空間における「場」を提供する事業者(リアルなら東京ビッグサイト)と、その場でイベントを実施する組織(リアルならコミケ準備会)が出てくるのではないか。
これがシステム的に成立するなら、即売会だけでなく、普通に商談会とか就職説明会とかもできそうな気がしますね。
◆映画やドラマやアニメ
言うまでもなく、実写の作品をつくる人たちにとっては、受難のときですね。
許容できるくらいリスクが低下するのを待つしかないでしょう。
一方で、アニメは、その気になればリモートでほぼ完結させられるのでは?という気もするので、今回の状況をきっかけに制作環境の変化が進めば、意外と普通にできるのかもしれないと思います。
ただし、制作環境の変化に投資する余力があるのか、そもそも変化するまで体力がもつのかという点は気になります。
コロナで食らう前から、ブラックな制作環境は問題になっていたわけなので、それを改善するきっかけになってくれたら良いと思います。
◆舞台芸術も大変
当面は、本当にどうしようもない気がしてしまいます。
実写映像作品以上にどうしようもないのではないかと。
無傷でやり過ごせる期待をするのは現実的とは思えないので、文化やノウハウを断絶させないことに集中するしかないと思えます。
一方で、もしかすると、そのうち、舞台芸術もリモートが可能になるかもしれないとは思います。
というよりは、「できるとしたらどうなるのか?」という方向で。
各自が3Dデータとして撮影(複数カメラによるデータ統合など)することができれば、それをあとから合成して一つの「デジタルな舞台芸術」にできるかもしれない。
ブルースクリーンを活用することで、「役者の演技」と「背景」を分割してつくることができるようになったのと近い感覚です。
テレビで見られる、CGでつくられたスタジオセットでしゃべるアナウンサーのイメージにも似ているかもしれないです。
技術的には、複数のスタジオでしゃべる人間同士を、ひとつのCGセットの中に置いて、一ヶ所にいるように見せるのと同様でしょう。
「デジタルな舞台芸術」は、VR端末で楽しむスタイルになるのでしょうか。
視覚情報以外も忠実に再現することができて、舞台芸術の空気感をより伝えられる端末が登場すれば、さらに勢いを増すのでしょう。
もっとも、この場合「舞台芸術とはなんぞや」とは思います。
作品が生み出される場と客が鑑賞する場の断絶をどう考えるか。
客の反応を必須のフィードバックと捉えるのなら、よりハードルは高い気がします。
「舞台芸術とはなんぞや」は、「映画とはなんぞや」とも無関係ではない。
映画において、3D化がより進み、果てしなく続くように見えるバーチャルな空間で展開する作品を鑑賞するスタイルになれば、映画の画面をつくる長方形の枠の存在価値がなくなっていくかもしれない。
そのような、「長方形の枠にとらわれない映画」ができてきた場合、「デジタルな舞台芸術」との間の境界は、かなり曖昧になる気がします。
◆漫画は人それぞれ
フルアナログの漫画は大変だと思います。
逆に、フルデジタルなら結構どうにかなりそうという気も。
そもそも、スピードを気にしなければ、漫画というものは、実質一人でつくれてしまうのが強い。
もし今回のコロナショックが20年早かったら、デジタルで制作する人はほぼいなかったはずなので、漫画業界が食らうダメージは何倍にもなったんだろうなとは思います。
(ちなみに、先駆者のモンキーパンチがデジタルマンガ協会を設立したのが2003年らしい)
制作から流通に至るまで、その気になればデジタルでやれてしまう状況になってからなので、比較的少ないダメージでいけるのではないでしょうか。
ただ、作品内容は、大なり小なり影響を受けるんだろうなと。
どんな形で見えて来るかは分かりませんが。
◆音声メディア
人が一ヶ所に集まり演じるハードルは、当面高いはず。
相対的に、各自が収録し、編集して一つの作品にするやり方が見直されると考えられます。
すでに、本来の公演ができない代わりに、歌や演奏を各自が収録し編集して一つの作品として発信する流れは、世界的に出てきています。
この点で、ボイスドラマ等は、結構追い風の可能性もあります。
もっとも、音声メディアについては、コロナショックより、AIショックの方が影響しそうな気はします。
昨今の状況を見ていると、音声メディアの素材である「声」が、生身の人間の声だけでなく、徐々にAIを活用した合成音声に取って代わられていく可能性は十分高いように思えます。
これは、「分かる人には分かるけれど、多くの人が気にならない」となるのが、いつの時点かによると思います。
音楽がMP3で流通するようになったときの変化は参考になるでしょう。
結局、音のクオリティーの差を、多くの人は気にしなかった。
差が意識されないレベルになったとき、「生身の人間の声であることの価値はあるのか?」と問われるのでしょう。
アニメなどの声優も同様です。
声優の声をAIでかなり忠実に再現できるようになれば、かなりの部分は取って代わられる可能性がある気がします。
◆書店の役割
「本を読みたいなら本屋へGO」がほぼ唯一の選択肢だった時代は終わり、そもそも書店の役割とは何かという感があります。
「できるだけヒトを移動させるべきではない」→「かわりにモノを移動させる(宅配)」→「自動運転やドローンなど無人輸送システムが確立してくるまでは、需要に供給が追い付かずモノの移動コストが増す」→「データ販売の割合が高まる」
このような状況を考えれば、書籍に関しても、電子版がより勢力を増すはず。
その場合は、既存の書店は力を失っていくのでしょう。
書籍の流通において、大きな関所となっていた書店が力を失っていくと、新たな流通経路が拡大していくのかもしれない。
結果として、自費出版、少部数の出版がよりやりやすくなる可能性もあります。
「これまで一般的だった出版スタイル(本屋に並ぶやつ)」と「かなり少部数でコストの高い出版スタイル(同人即売会など)」の中間タイプが勢いを増すのではないかと。
今までビジネスとしては成立しなかった少部数の出版ほどは身を削る必要がなく、心理的ハードルが下がる可能性。
この場合、多様化するニーズに対応しやすくなると考えられるので、テレビの凋落とYouTubeの繁栄に似たことが起きるかもしれないと思います。
ビジネスとしてより小規模だけど、より小回りが利くやり方で、秀でた企画力とセルフプロデュース能力があれば、既存勢力の切り崩しが可能であると証明している形。
「中間の出版スタイル」がありならば、例えば、新雑誌などの創刊もやりやすくなるかもしれない。
サークル的組織が編集部のように機能し、従来の商業誌ほどではないけれど、従来の多くの同人誌より大きく展開するタイプの漫画雑誌など、可能性は広がります。
広い分野について言えることですが、企画力とセルフプロデュース能力が極めて強力な武器になるのでしょう。
あらゆる点で、同人と商業の境界はますます曖昧になるだろうし、ますます無意味なものになるのでしょう。
◆働き方の変化に伴い
在宅やリモートが、「出社できないときの最終手段」ではなく、「はじめから普通に選べる選択肢の一つ」へと格上げされていきそうです。
そもそも、これまでの働き方がなかなかクレイジーで、「勤労の義務」はあれど、タイミングを合わせ仲良く満員電車で潰される義務はないはず。
労働生産性という意味でもどうかと思います。
働き方の変化により、どこに住むかを選ぶときの制約が少なくなるはずです。
都市部からの人口流出と地方の人口回復。
(食糧難に伴う農村への移動のように。あるいは、仕事を求めて都市に出てきた経緯を逆にたどるように)
そうすると、地方発の流行というのが多くなってくるかもしれない。
今までより、流行の発信源が多様になり、今までにない面白い流れが出てくるかもしれない。
都市部から地方へ波及する一方向の流れが支配的だと、この流れに乗りやすいものが常に強い。
結果として、多様性は下がります。
そもそも疫病の大きな原因の一つが「過密」にあることを考えれば、この種の人口移動は、自然であり必要な流れと思えます。
社会をうまく回すため、「副業」もより一般的になってくるのでしょう。
副業がより一般的になれば、リスク分散に伴い、人材の流動性が増すはず。
複数の仕事ができれば、より自分にあった方にどんどんシフトしていくことも可能。
クリエイティブな仕事は、生計を立てるという意味では、もともとリスクが高く、結構な覚悟が必要だったわけですが、リスク分散しやすくなる状況では、ハードルをかなり下げることができそうです。
クリエイティブな仕事への参入はより容易になるのでしょう。
そもそも、AIのレベルが今後あがっていくことを考えれば、クリエイティビティ―の価値があがっていくのは自然な流れであり、コロナショックはそれをさらに後押しすることになりそうです。
諸々考えると、全体として、自由度は上がっていくのではないか。
制約が減り、自由に動き回れるようになると、ヒトやモノや情報は、「楽しいところに集積する」ように思います。
最たる例が大学。
大学生は、高校生よりやれることが一気に増え、それでいて勤労に追われることのないモラトリアムであり、もっとも自由度の高い社会集団。
そして、大学においては、結局、「楽しいところに集積する」というのが、現象として非常に分かりやすいと思います。
程度は違えど、今後、社会全体がこの状況に近づいていくのではないかと思います(良くも悪くも)。
「楽しい」が、ヒト・モノ・情報を集めやすいなら、そこには価値が生まれるはず。
「表面的に楽しく見せることに腐心する」のではなく、「本当の意味で楽しい場を作ることに切磋琢磨する」という流れに入ると良いなと思います。
◆自由度が高くなると
「自由度が高い」の流れで、「評価基準が多様」になると、自分の価値判断に自信がない人は、不安感を増していきそうな気もします。
自分の価値判断に自信がなければ、自己判断で安定を図ることはできない。
たえず、周囲の人から判定してもらい、お墨付きをもらうしかなくなる。
でも、周囲の人も多様なので、人によって基準はバラバラ。
結果、心の安寧は得られない、もしくは継続しない。
こういう場合、最終的に行きつくのは、ランキングなどの統計データや、AIによる判定なのかと思います。
人から得られる生データのゆらぎが激しすぎるので、ワンクッション挟んで、「それっぽく」整えられたものに縋ることになりそう。
「データの活用」と「データへの依存」の差は大きいと思いますが、依存してしまうタイプの人は、いろいろ落とし穴にはまりそうな気がしてしまいます。
社会全体において、許容される価値観が増せば、結局自分の価値判断を信じて押し通せば良いのではないかと思うし、そうできる人は、より遠慮なくチャレンジできるでしょう。
これはもう、ワクワクするしかない。
人として最低限のモラルと法律を守っていれば、実質やりたい放題。
自由度の高さは、自由な発想の前提であり、基本的には、創作界隈の活性化に繋がると思います。
日本の同人文化は、日本がいろいろな面でガバガバであることと無関係ではないでしょうし。
◆自由にやることを後押しする互助集団
一人で何でもできる超万能タイプでなければ、根本の価値観のところが近い仲間で「土台」をつくり、そこを足場に自由に動くスタイルが、選択肢の一つとしてもっとあって良いと感じます。
この「土台」は、これまで社会の中で学校や会社が担ってきた部分。
仲間がいることで、選択肢が増える、気付きの機会が増え、継続的な成長につながる。
ただ、学校や会社は、一定ラインの秩序が重視されるが故に、場合により制約が強く身動きがとりづらい状況が生まれていました。
だからこそ、もう少し自由度の高い形で「土台」があればと。
「帰属意識」と「収入源」を一体化させて成立していた従来の会社の価値は、少し考えなおしても良い気がします。
この二つを切り離せば、もっと満足度の高い生き方ができるという人も多いのではないかと思います。
「帰属意識」と「収入源」を不可分のものとする必然性は、少なくとも現代ではない気がします。
「各自が己のスキルを活かした収入源を確保することを基本とした個人の集団」というタイプ、つまり、ある種の「互助集団」がもっとあって良いのではないか。
基本は個人プレーだけど、リスクが丸ごと個人に振りかかるとなると、動きにくいケースが考えられます。
チャレンジできなくなるのは意味がないので、互助集団は保険としても機能する。
もちろん、一体感を感じたり、ノウハウの共有、業務集約による効率化なども考えられます。
高度な自己決定権を持ちつつ、個人プレーの弱点を可能な限り埋めるシステム。
この「互助集団」は、「会社に尽くす人間」と「孤高のフリーランス」の中間のような概念でしょうか。
何か適切な言葉があるのかもしれないけれど、よく知らないので、とりあえず「サークル」と言っておきましょう。
目的を共有して集う「会社」に対し、価値観を共有して集う「サークル」という概念が、もっと広がりを見せていって良いのではないか。
特に、創作と結びついた領域について言えば、後者の相性はかなり良いようにも感じます。
コロナそのものは、あくまで一つのきっかけかもしれないけれど、連鎖して大きな変化に繋がっていくのでしょう。
非常に短い期間で、コロナは現代社会に非常に多くの「気付き」を与えているように思います。
「気付き」は「変化」に繋がる。
このような時節においては、各々がより己の理想に近づけるよう、よく見てよく考えてよく準備しておくことが大事なんだろうと思います。
※いろいろ書き散らしただけで、オチなし。
sho