アートとは理性によって本能と向き合う行動ではないだろうか。
どうも遊木です。
前の記事に書いた通り、ここではアートについてのぼやきを。
なんか偉そうなこと言ってても、所詮ぼやきです。
前記事で書いた通り、『雨ニモマケズ』(BankART Station+R16スタジオ)、『宮本隆司:首くくり栲象』(BankART SILK)に行ってきました。
トリエンナーレのような規模ではないにしろ、興味深い作品や企画だと感じるものが多々あります。無料で入れるのがすごい。
アートにとって、延いては“創作”にとって大切なものは何か、と考えることが良くあります。
知識?感受性?企画力?コンセプト?情熱?どれも正しいようで、何かが違う気がします。おそらく様々な要素がバランスをとって「優れた表現」というものになるのでしょう。
私は個人的に、人間が何かを作品(もしくはそれに準ずるもの)として表現する行動を、とても理性的なものだと感じています。
世にある沢山の作品の中には、まったく理解が及ばないもの、狂気を感じるもの、場合によっては作者の心理状態や行動に疑念を抱くものすらあります。しかし、どんなに不可解なものであろうと、自分の内なる何かを「作品として表現する」という“過程”は、とても理性的な行いと感じませんか。
私は、人間には誰しも自他に対する凶暴さ、破壊衝動、非社会的な思想、鋭利な生得観念などがあると思っているタイプです。それを本能のまま表に出せば、この社会では犯罪者や社会不適合者などと呼ばれる。
アーティストは人間が持つ根源的な本能と向き合い、対話をすることで“作品という理性”に昇華させ、人間が人間らしく、自分が自分らしく、ありのままの私でありたいという、情動や欲求を驚くほど率直に表現してみせます。本能を理性によって表現することで、本能的欲求を解消する。創作の意義は、創作にとって大切なものは、もしかしてここにあるのかもしれません。
ところで、今年行われるあいちトリエンナーレのタイトルは『情の時代』です。HPに、おそらく芸術監督である津田さんが書かれたと思われる導入文があるのですが、そこにこういう一文があります。
われわれは、「情」によって「情」を飼いならす「技」を身に付けなければならない。それこそが、本来の「アート」ではないのか。
ここでいう「情」とは、「不安な感情やそれを煽る情報」と「なさけ、思いやり」の二つの意味を指しています。
私は、この文章が非常にうまい言い回しだなと感じました。自分がずっと感覚的に持っていた意見を、すぱっと簡潔に言い表して貰った気持ちよさがあり、展覧会自体にもとても興味を持ちました。
横浜トリエンナーレには学生の頃から何度も行っていますが、越後つまりや瀬戸内など、関東外の芸術祭には行ったことがなかったので、今回のあいちトリエンナーレは可能ならお邪魔したいと考えています。
2018年度はサークルの方針的にほぼ漫画制作一筋でしたが、やっぱりアート活動もしたいなぁという欲求がずっとあります。現実的な優先順位はありますが、基本的に私の脳内こんな感じ↓↓なので、上手にやりくりできたらなぁと考えている今日この頃。
知り合いの創作脳内メーカーも見たいな。
aki