10月16日(金)
昼下がり、風邪でもひいたのかのどが少し痛いためたばこは控え、それによって手持ち無沙汰になったボクの手は、自ずとほっぺたを中心に顔をごしごしとこすっていた。いつからだろうか、これはひとつボクの癖になってしまっている。自分ではもう分からなくなっているから、もし誰かボクがそれをしているのを見て変だと感じたら知らせてほしい。一心に、この行為(癖)は心配するほど変なものではないと、祈りにも似た気持ちで願っている。というのも、それをしている間はなんだかとても心が落ち着くからだ。できることならやめてしまいたくない。
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ボク自身はなんとなく、その因果はジョギングがもたらす代謝率向上にあると考えているのだが、以前久しぶりに会った友人から「なんか肌がきれいになったよな」と言われたことがある。しかしよく考えてみたら、ボクの癖は何かの動きに似ている。それは「やすりがけ」。考えられるもうひとつの仮説として、「なんか肌がきれいになった」その因果は、「手の平でほっぺたをごしごしこする」という癖による副作用のもとにある。心が落ち着くわなんか肌がきれいになるわの、これは類稀なる一石二鳥というやつだ。かねてから「効率が良い」というものに憧れてやまないボクは、これからはこっちの仮説を支持することに決めた。目指せ、凪いだ海のような穏やかな心、むきたて卵のようなつるるん肌。
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ところで、先ほどそのように顔をこすっていたら、目じりを捉えた指先に異物感を覚えた。何かと思って取ってみるとそれは目やにだった。余談だがボクは「目くそ」とは言わず、あくまでも「目やに」だ。「くそ」とはなんだか汚くて、自分から出たものに汚い名前は極力つけたくないのだ。まぁ「目やに」、「目くそ」どちらでも、それは目くそ鼻くそなのだけれど。ややこしい。
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今この「昼下がり」というのはもちろん起きたてなんかではない。朝起きて、そして何時間か経って迎えた昼下がりだ。朝起きるとまずはきちんと顔を洗うわけだが、それで落ちきらなかった目やにがこうして昼下がりにまで残っていて、そうなるとこのままでは夜まで居座ることだってあり得た。たまたまこの奇妙な癖によって発見することができたからよかったものの、今日はこのあと外出だ、いい大人が夕方に目やにはりつけたままいては、それは信用問題に関わってくる。なにはともあれ一石三鳥、取り除くことができて良かった良かった。
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そんなことからも分かるように、近ごろボクはほとんど鏡を見なくなった。眉毛はいじくらなくなったし、髪の毛だってほとんどセットしなくなった。また、毎朝かまってやる必要があるほどボクのひげの毛根はワイルドではない。そして朝の歯磨きは新聞のコラムを読む時間と兼用だし(ちなみに夜はお風呂の中)、服を着替えて映す姿見でも顔なんてちっとも見ていない。鏡ばかり見ている男はどうかと思うが、ほとんど見ない男も同じくらいどうかと思う。あまり自分の顔に頓着しなくなったのは決して悪いことではないのだろうが、目やにが取れているか否かを確認するくらいは、毎朝鏡で自分の顔を見なくてはいけないなと反省した。
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「外見がかっこいいだけでは意味がない」、そんな言葉がしみじみ感じとれるようになってきた自分だが、読みがどうにも浅かったようだ。内面さえかっこよければよい、という意味ではなく、外見も内面も、ある程度かっこいいことには何の邪魔にもならなくて、やはりかっこいいほど良いのだろう。そういうわけで、もう少し鏡に対峙する時間を増やそうと思った次第だ。ひとつ今年は「鏡の秋」というのも加えてみよう。
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とは言いつつも、いずれは再び、ほとんど鏡を見ない生活に戻りたいと思っている。そのためには目やにの心配をゼロにする必要があるわけだが、なるほど「ほっぺた及び顔をこする」あの癖を励行すればいいのかもしれない。何ものもこびりつかせないほどのつるるん肌が実現されたとき、人は目やにの心配から解放される。