一過性の最低。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 10月15日(木)

 「自分は自分をやめることができないから――」、おそらくそんなところから生じることなのだろうが、ときどき自分で自分のことを最低な奴だと思うことがある。いつもそう感じるわけではなく、あくまでも、ときどき。よほど強く意識している人を除いては誰しもそういうふうに感じてしまうことはあると思われる。だからそんなふうに思ってしまうことについてそれほど悲しいとは思っていない。「一過性の症状」、それ以上でも以下でもない、そう捉えることにしており、差し当たりこの解釈に間違いはないだろう。

▽▽▽

 より上手な生き方としては、どちらかと言うと、いかなるときでも無理やりにでもどんな自分も肯定してあげることが望ましいことと思う。それでも自分のように、そういうひとつの方法が性に合わない人もいて、ならば別の方法での生き方をひとつ選ばなくてはならない。たとえそれが最も上手なものでなくても、そちらが性に合うと思うのならば素直にそちらを選んで、その結果傷つくのであればそれは別に最悪なものではない、まともな傷だ。万が一自分の中に生じた意見を無視して人の後ろについていき、それで傷つくようなことにでもなってしまって、そのときの自分の状態が「最低な奴」だったとしたら、誤ってその矛先を人に向けてしまいかねない。被害さえ与えなければよいという次元の話ではなく、原因は誰か他人にあるのではないかと少しでも考えてしまえばその時点でアウトだ。そう思う心はすでにどこかが腐ってしまっていて、一度腐ってしまった部分はちょっとやそっとでは修復できない。だから、当面の安全策であるという浅薄な考えだけでみんなと同じ方向を向いてしまうのではなく、性に合わないと感じたならば速やかに別の、自分に合うと思う方向へ向かうべきだ。安全策から離れて傷つくことになったとしても、結局長い目で見ればそれがいちばん傷つかなくてすむ方法なのだから。

▽▽▽

 さて、最低な人間だという話であった。もう一度書いておくが、そのような状態に陥ることは、別に悲しいことではないと思っている(もちろん真っ只中の今は幾分悲しい気持ちだけど)。これは突発的で一過性のものである以上、明日どうなっているのかは分からない。単純な自分のことだから、寝て起きればもう抜け出していたということも大いにありえ、実際過去に何度もあった。

▽▽▽

 悲しいことではないとはいえ、やはり良い気分では決してない。抜け出せるものならば今すぐにでも抜け出せたら、と願っている。それでも経験上分かっているのは、自分で打破できるような術はないということだ。もがけばもがくほど深みにはまっていく(というような絶望的なものでもないけれど)。こんな自己嫌悪に陥っているときは極力人と顔を合わせるのを控えるようにしている。どうやら黙っていても負の感情というのは人に伝わってしまうものだから。強いて言うなら時間が経てば回復するということが分かっているため、休みの今日は部屋で本を読んで、あとは本屋に行くなどして過ごした。没頭できると思い「読む本」は、特例でその順番をちょっと変更して小難しい文体の古い外国の長編小説を選んでみたのだが、久々にやってきたこの感覚、今夜の寝つきはとても良さそうだ。安眠は良薬となることもなんとなく分かっている。いささかフライングだけど、文豪今夜もありがとう。

▽▽▽

 たのしいだけのふざけたブログばかり書きたいものだ。