失われたジョギング道を求めて。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 10月9日(金)

 10日そこらの旅行を経て、ジョギングもまた再開している。旅行の仕度の段で、ジョグ用のウェアも持っていくかどうか最後まで迷ったけれど、それはかばんの容量オーバーが最大のネックとなって断念した。結果的にはそれでよかった。まず、その数日間の中でジョギングをする暇など――つくれば少しあるにはあったのだが、ほとんどなかったから。また、初日に夜の町歩きに関して少々手厳しい洗礼を浴び、すっかり畏縮してしまったから。それで仮に時間とウェアがあったとしてもおそらく、少なくともいつものような夜のジョギングは敢行していなかったことだろう。ふたつ目のホテルにはそれなりのジムのような設備があったのだけど、ボク的ジョギング道には「ジョギングとは町を走るものである」というポリシーがあるため、それを利用することもなかっただろう。要するにその間で、めちゃくちゃ歩いたことを別にすればなかなかの運動不足になってしまっていた。

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 そういえば少し前、「ジョギングにマンネリを覚えはじめたかもしれない」というようなことを言っていたのを思い出した。それを乗り越えるために「そんなものぶっちぎるためにさらに走りこむ」や「積極的休養を採用する」といった策を講じていたことも。だけど再開を迎えるに際してそんなマンネリなどは完全に影も形もなくなってい、いつかの青き衝動「走りたくて仕方がない」が体内をパレードしていた。そんな折に台風が襲来したものだからせっかくの意欲に水を差され、枕を濡らした夜もあった(窓閉め忘れていたわけではない)。そして昨夜、満を持して再開後二夜目のジョグに飛び出したわけだが……。

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 さかのぼること何日か前、ボクは久しぶりのジョギングにはやる気持ちを抑えて、その前に入念に体をほぐしていた。いつもより時間をかけてていねいにほぐし、いざ出発してみたらば、いきなり違和感を覚えた。体が、うまく動いてくれないのだ。

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 子どもの運動会で親(大抵が父親)が参加するリレーなどの競技で、全力で走る親父が派手に転倒する映像はいろいろなところで目にし、それはひとつの平和な日本の風景である。これは世の親父がすべてドジなわけではなく、要するに、頭のイメージでは若かりし頃の自分なのだが体はすっかり年老いてい、そのイメージと付き合いきれない体とのギャップが転倒を招くということらしい。

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 そう、自分も久しぶりのジョギングのあの夜、イメージは以前のように楽々走っていた頃の自分だった。それが、さすがに転倒はないまでもぎこちない動きになってしまうのは、体が以前よりもなまってしまったからだと考えられる。深刻なものとは捉えていない。それまで週の半分以上は走りこんでいたのが、突然10日ほど止めてしまえば、そこには幾分の筋力の低下などは大いにありえるものだから。だけどその「幾分」でも、違和感を抱かせるのには十分であるようだ。そうして再開後の初夜は、短めの距離をのろのろと、途中で歩いたりもしながら失意のままに終えたのだった。

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 前回の一回だけでもとの体を取りもどしたと思うほど自分はおめでたくはない。だけど、もう少しはましになっていると思って臨んだ昨夜二夜目だったのだが、結果はまたしても失意だった。見ずとも分かるぎこちないフォーム、異常なまでの息切れ、ちっとも入ってこないBGM……、いったい自分はどうしてしまったのかと頭を抱えたくなった。

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 といっても、こうなってしまったのは仕方がない。そしてこれは何も自分にだけ降りかかったような種類の不幸ではなく、当然の因果のもとにある。ならば向こうしばらくのジョギングは、「失われたジョギング道を取りもどす」という名のもとで走ると位置づけ、ひとつのイベントごとみたくしてしまえばたのしめそう。事実はひとつ、考え方はふたつ、だ。

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 それにしてもほんとうに目を覆いたくなるような衰えっぷりだ。またあの頃のように平気で遠くまで走れる夜は、そして、それをさらに越えられるような夜は来るのだろうか。改めて継続することの大切さを学んだのだった。それと、そろそろ半パンでは寒くなってきた。