読む本が、気づけばかなりたまっている。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 10月8日(木)

 読む本が、気づけばかなりたまっている。一応毎日少しずつ読書はしているつもりだ。昨日くらいからまた、就寝時のふとんに入ってからの読書も再開したことから、まったくたいしたことはないまでも、一定の読書の時間は確保できている。なのに、なのだ。

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 旅行から帰ってきて就寝時の読書がようやく再開したのが昨日という理由は、単純にそれまで寝つくための読書が必要なかったからだ。あらゆる「寝つき」と相性の悪い自分のこの性質、換言すればこれは「眠れないのはひとつの長所」ということができ、ならばと飛行機の中で、時差を寝ないことでコントロールした。行きはばっちしそれがあたり初日から絶好調だったのだが、同じ手はずで臨んだ帰りは、現状を見るに成功とは言えないような気がしてならない。つまり、なんだか眠くて仕方がないのだ。ただ――それだと認めるのは少しもやぶさかではないが、これを時差ぼけだと決めつけるのは早計というもので、春でもないのにちっとも消えないこの眠気は、たたった疲労によるものだと考えることもできる。まぁ、自分としてはそれほど疲れているとは思っていないのだが、それは体に訊いてみないと分からない。とにかく、どっちだっていい、事実はひとつだ。何にせよ旅行から帰ってきてから眠気がすごい。それで夜は一瞬で眠りに就く。だから就寝時の読書時間がなくなったせいで本があまり読めておらず、結果、読む本が、気づけばかなりたまっている。

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 生来、自分は近未来のうちに読むつもりの本をためるような性質の人間ではなかった。現在読んでいる本とだけ向き合って、その交際をきちんと終えてから次を探すという方針でやってきた。それはつまり、すべて自分で、書店に足を運び、探して、選んで、悩んで、購入して、というようにやってきたから為しえたことで、そのため本選びに関して自分は自分以外の人の価値観を取り入れることをしてこなかった。平たく言えば、友達から勧められた本を読むなどということを、あまりしてこなかったということだ。

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 それが今、(以前の自分の方針を、一途な恋愛みたく例えたせいでいささか言いにくくなってしまったが)人が「良いよコレ」と教えてくれた本などは積極的に貸してもらうようになったし、強引にオススメだと渡してきてくれるような人に対しても適当な理由をつけて断ることもなくなった。特に何があったわけでもない。成り行きで、こんな感じになっていたのだ。だから、読む本が、気づけばかなりたまっている。

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 自室の定位置(机と椅子)、その25センチ隣に本棚がある(実際に測ってみた)。そこには、あえてきれいに並べずに積んだ本が7,8冊ばかりある。これらが目下のところの「読む本」にあたる。しかし広義の「かなりたまっている読む本」とは、今手もとになくても頭の中にもっとたくさんある。それは小説だけではなく、エッセイや詩集、句集、専門書(それほど敷居は高くないものだけど)、図鑑、さらには絵本まである。特定できておらずただ漠然と「こんな感じの本!」と輪郭だけが浮かんでいるジャンルのものもあり、それすらも「かなりたまっている読む本」に入る。昨日の今日だ、料理本なんかも予備軍として控えている。

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 どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。理由は分からなく、そしてどうでもよくて、今は一心に「取り入れたい」という思いに駆られている。そんなふうに思っている今の季節はまさに秋。「読書の――」と言われるまさにそのど真ん中。ぴったりこのタイミングで芽ばえるのだからまったく自分はおめでたい。まだ先の話だけど、秋が終わればこの流れも一緒に終わってしまうのだろうか。だとしたらそれは残念だ。

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 とかなんとか言いつつ今も、時間はあるくせに「読書だ!」という気にはなれない。他にしなくてはいけないことがあるのに……という罪悪感めいたものが足かせとなっている。読書に関して心が鎖国から開国を迎えたこと、感性が敏感になる秋に突入したこと、最近新しいことに触れたこと(アメリカや料理、とりわけカレー)等々、いろいろと理由は考えられるが、いちばんの理由はそんな自分の「自由になれない心」にあるのかもしれない。読む本が、気づけばかなりたまっている。